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第5章 リスクを評価する

はじめに

5.1 4章では、遺伝子操作生物の放出によって起こりうる環境への影響を説明した。
そこで指摘されているように、ほとんどは仮説であるか類推に基づいた説であり、遺伝子操作に適用できるかどうかは議論の余地がある。ほかの分野では、リスクに関する信頼すべき情報は、制御実験(controlled experiment)を伴った実際的な経験から得られるのが普通である。しかし、遺伝子操作について言えば、環境への大規模な放出という実際的な経験は今までほとんど存在していない。少数の制限つき実地試験が行われてきただけである。これらは、GEOを放出したことによるリスクを評価するうえで役には立つが、リスクの分析は主として、封じ込め実験(contained experiment)から得られる情報、親世代や近似種の生物に関する知識、生態学的かつ生物学的原則への理解にもとづいて実施されなければならない。

5.2 我々が調査を進めている間にも、GEOの放出に関連したリスクについて、信頼すべき論評が多数発表された。International Council of Scientific Unionsの委員会による声明(47)、United States National Academy of Sciences(48)、the US Congress Office of Technology Assessment (OTA)(8)、the Ecological Society of America(49)等の報告書がそれである(70)。この章では、これらの論評、そのほかの文献、そして我々が勧告を策定する際に影響力があった証拠等から浮かび上がった、主な問題点について述べる。

環境の復元力

5.3 外国の(alien)(あるいは外来の(exotic))動物、植物、微生物がもたらした環境の変化については、すでに述べた(パラグラフ4.14−4.23)。一般に、自然界は外来種(alien species)の侵入に対して耐性がある。たとえば、イギリスの庭園には、数千種の非在来(non-native)植物や変種が植えられているが、そこから抜け出してもっと広い田園地方に住みつくものはほとんどない。同じように、現存する自然界は、多くの作物や家畜の侵入に対しても耐性がある。19世紀以来、何千トンものバクテリア、Rhizobium(パラグラフ2.20)が世界的な規模で土壌に加えられてきたが、何の悪影響も観察されていない。

5.4 環境には、たくさんの障害から立ち直る能力がある。たとえば園芸の世界では、病原菌を少なくするため、植物を植える前に土を殺菌することが普通に行われている。次に栽培者は成長を助けるためさらに、有用な菌類を加えることがある。しかし、この作業がなくても、やがて土中に適当なバクテリアや菌類が再び現われ、栄養サイクルや他の重要な機能も復活する(50)。1987年10月にイングランド東南部で、強風による深刻な環境被害が起きた。たとえばノースダウンズの南に面した尾根に沿って何千本もの木々がなぎ倒され、その地を覆っていた植物が大きな被害を受けた。しかし、すでに野生の花、特にキツネノテブクロが、倒れた木のあとにできた空き地に侵入しはじめているし、木の苗も復活してきている。損傷を受けた環境が元通りになるには何年もかかるであろうが、この森林地帯の植物界は、自然の回復力を見せつけた。

5.5 外国産でも国産でも(alien or domestic)生物が自然界に定着することができない主な理由は二つある。ひとつは、気候など物理的条件に合わないこと、もう一つは現在の生物学的条件が、新種を締め出すからである。たとえば、必要とする栄養素が十分ない、既存の在来種が強力な競争相手として立ちはだかる、定住の害虫や病気によって進入が阻まれる、新参者が入る十分な場所がない、など。

5.6 自然界が侵入による影響をどのくらい受けやすいかを示す指標を提唱したのは、WilliamsonとBrownである。その報告書(51)によれば、外来種の植物(作物、園芸用植物を含む)、動物、微生物のイギリス諸島への侵入または導入の記録、計1058件のうち、およそ10分の1が定着した。その約10分の1は有害生物(pests)となり、その程度は比較的小さいものからかなりの被害をもたらすものまで、さまざまであった。同じようなデータはアメリカにもある(8)。しかし、特に小さい生物については、侵入が失敗した場合ほとんど記録に残らない傾向があるので、侵入者が定着に成功する可能性は、この数字よりずっと少なくなる。さらに、WilliamsonとBrownの調査で確認されたさまざまな種の侵入生物のうち、事前に安全性の検査をうけていたものはなく、にもかかわらず、定着した種の90%は、有害生物にならなかった。

5.7 微生物に関連して言えば、環境の復元に貢献している重要な要素は、自然に存在する生育環境の多様性である。微生物にとって、土はおびただしい種類の生息場所を提供してくれる。実際、どんな種でもいくつかのコロニーを形成することができる。一握りの土には、(土1グラムにつき10の10乗もの)数多くの種類からなる大量の微生物が含まれており、必要な栄養条件は、生育に望ましい気温、酸性に耐える能力、酸素必要量等、多岐に渡っている(96,97)。一つの微生物が操作され、放出される広範な生育環境の大半を支配するようになるなどということは、本質的にありえない。しかし、種が多様性に富んでいるからといって、その地域を侵入から守ることができると考えるのは、間違っている。南アフリカのCape Floral Regionは、世界で最も富んでいる場所であるが、オーストラリア産のHakea属の低木、松、アカシアなど外来植物の侵入に対して極端に弱いことがわかった。これらの外来種は攻撃的な侵入によって多数の在来植物を脅かした結果、ある地域では在来種が消滅してしまったり、またすべての地域から消滅してしまうケースさえでてきた(52,53)。

5.8 環境は一般に回復力に富み、外来の生物の侵入には抵抗力があり、生物学的混乱(perturbation)にも強いが、生物のあるものは、一旦環境に放出されると、そこに定着してしまうことがあるというのが、我々の結論である。そうした生物の大部分は無害であるが、中にはさまざまな程度の害をもたらし、極端な場合、環境に深刻な影響を及ぼすことがある。

5.9 もう一つ考慮すべき環境の重要な点は、主な生物学及び地球化学的プロセスの復元力である。天候のパターン、炭素、窒素その他栄養素が環境中を循環するプロセスなどが、生活環境に欠くことができないということは、我々の知っている通りである。しかし、完全に理解されているかというとそうではない。パラグラフ4.8と4.9で、GEOの放出がこれらのプロセスに干渉する可能性について述べた。たとえ局所的でも、これらが大きく破壊されるようなことがあれば、環境に重大な影響が生じる可能性がある。しかし、最近の調査(8)では、近い将来行われる予定のどんなGEO放出によっても、このプロセスが危険にさらされることはありえないと結論づけられている。

環境への影響を予測することの不確かさ

5.10 環境への影響を予測することはむずかしい。侵入について予測する際に基盤となる科学が、それほど進歩していないからだ(54,55)。近縁種のグループ間で、一つのグループは新しい環境の中で定着したのに、他のグループは、明らかに同じ機会を与えられながら、定着しなかったという例はたくさんある。たとえばイギリスで、導入されたマンダリン鴨(Aix galericulata)は首尾よく定着して広まっているが、同じく導入されたカロライナ鴨(Aix sponsa)は定着しなかった(46)。パラグラフ5.7で、南アフリカで目立った雑草となったHakea種について述べた。他に3種のHakeaもそこに定着したが、有害生物とはならなかった。同様に、Avena sativaは栽培されている畑の外には広がらなかった主要作物(オート麦)であり、近縁種のA. strigosaは、やせた土で育つ家畜用農作物で、あまり問題にならない雑草であったが、一方、もう一つの近縁種A. fatunaは、耕作地にとってやっかいな雑草である(2)。なぜ、ある種はう有害生物になるのに他の近縁種はそうならないのかを突き止めることは、極めて困難である。予測のむずかしさを表すもう一つの例は、イギリス在来の稀有な草であるVulpiaに見られる。この草は、オーストラリアに導入されて、目立ったな雑草になってしまった。イギリスの植物の生態学に関する詳細な研究(56)でも、オーストラリアで劇的な変化をとげることを予測させるような手がかりはつかめていない(54)。

5.11 ある状況の下で、特に微生物については、実験室でその行動を調べることができる。実際、バクテリアの生物学的特性についての知識は、一種類の菌株だけを用いた実験室での研究によって得られるのが普通であるが、自然の生態系の中に混在している多種のバクテリアの相互作用について知ることは、ほとんど不可能である(57)。

5.12 多くの個体群が閾値行動(threshold behavior)を示す、という仮説を裏づける証拠が次々に出てきている。それは、数が臨界値を下回っているときと上回っている時とでは、違う結果が出るというものである(49,57,58)。たとえば、ある臨界値の密度を下回ると、その個体群は、どれほど助けようと努力をしても、絶滅してしまうかもしれない(59)。害虫を生物学的に抑えるために新しい昆虫群を定着させる可能性は、放出される昆虫の数が多くなればなるほど高くなる(60)。これらの閾値が自然界の個体群に存在することが、GEOの行動予測のむずかしさに拍車をかけている。

5.13 多くの放出計画は、家畜や栽培作物に関するものになろうが、これらの動物や作物の行動はこれまで述べてきた野性種のどれよりもよく解明されている。そのような場合は、綿密な評価を経て、環境に影響を与えるであろう行動を正当に予測することができるはずである。たとえば、通常の小麦と似た条件で植えられた遺伝子操作された小麦は、操作されていない近縁種と似たような行動をとると思われる。同じことは、Rhizobiumなどのよく知られている微生物についても言える。さらに、ある種の植物は雑草に変わることがあり、動物によっては重大な有害生物になるものがいて、微生物の中には有害となるものがあるという知識と、外来種の放出の経験(パラグラフ4.14−4.23)があれば、不確かな領域を少なくすることができるであろう。パラグラフ10.29-10.32で、環境の中での生物の行動を予測する能力をさらに高めることができる研究について論ずる。

5.14 一般に、放出されるGEOが、放出場所によくみられる生物の改変版(modified version)であれば、放出の結果を予測する能力が増大する傾向にある。環境の中でその微生物がとる行動がよく知られている、遺伝子改変の範囲が限られている、新しい遺伝物質の特性と元の生物との相互作用がよく理解されている、放出される量が過剰ではないことが、その条件である。

従来の育種方法と自然のプロセスとの類似

5.15 遺伝子操作は新品種を生み出す方法として、数世紀に渡ってヒトが利用してきた従来の育種方法より、さらに管理され進んだものにすぎないと言われてきた(149)。従来の育種方法は、自然に発生して定着するということのない株を開発し市場に出すことを可能にするものである。しかし、一般にこの方法が使えるのは、交雑育種ができ、従って互いに近縁な生物に限られている。対照的に、遺伝子操作では、ほとんど全ての生物から得られる遺伝子を、他のほとんど全ての生物に導入することができる(48)。この点で、遺伝子操作は従来の育種方法とは本質的に異なる。

5.16 あらゆる可能な遺伝子結合(genetic combination)は、進化の歴史の中で発生したものであり、だから遺伝子物質を操作して新しい特質を持った生物を作ることなどできるはずがないと論じられることがあるが、これは反駁されてきた(57)。いずれにしても、自然に発生した結合(combinations)の多くは、突然変異的に発生し、環境にとってその存続は好ましいものではなかった(48)。対照的に遺伝子操作は、個々に計画された変化を実験室でおこすことを可能にする。自然界では同時に起こるはすがない複合的改変(multiple modifications)さえできる。従来の育種法と同じく、改変された生物も、自然界の突然変異で発生したとしたら、生き延びることはできなかったかもしれないが、実験室では好ましい条件のもとで、放出したときに生き延びる可能性を最大にする量に達するまで再生される。その生物はその後、生残の可能性が大きいとして入念に選ばれた環境の中に放出される(152)。このようにして、GEOは、自然に発生した生物には見られない定着力(potential to establish)を持つようになる。

5.17 遺伝子操作によって遺伝子を削除(delete)された生物は安全とみなされるべきである、なぜなら遺伝子の削除は自然界では普通に起こることだからという議論がある(95)。我々はこの意見には賛成しない。欠失は生物の行動を大いに変化させる。たとえば、プロモーター、エンハンサー、サプレッサーを欠失すると、遺伝子の発現の程度、時間、場所が変わってくる。そして前のパラグラフで述べたような技術により、生物の大量な生残と再生が保証され、その結果環境に影響を及ぼすことになるが、このようなことが自然に起こることはまず考えられない。

5.18 遺伝子操作の影響を全て予測することは不可能である。20年前には考えもつかなかったことが現在可能になっている。独創的な人々は、将来この手段を自由に使いこなせるようになるだろう。たとえば、化学的合成により新しい遺伝子を作り出したり、今までに知られてきたのとは全く違う影響をもたらすような生物の開発が可能になるかもしれない。

遺伝子操作生物の適合性

5.19 GEOは、ほとんど例外なく、自然に発生する生物「より弱く」、生残に対する適合性が少ないという見解が、たびたび述べられている(57,58)。この意見を支持する説として時々持ち出されるのが、いわゆる「超過荷物仮説(excess baggage hypothesis)」である。これは、遺伝物質を付加(addition)すると、その遺伝子の運搬(carry)と発現に大きなエネルギーを必要とするため、生物にとって重荷になるという説である。そのため、その生物は自然にある近縁種と比較して不利な状態に置かれることになり、競争に負けるか、余分な遺伝物質を出すよう圧力をかけられるか、どちらかの運命をたどることになる。しかし、この「超過荷物仮説」は一般的に支持されているわけではない。実際、リゾビウムなど土壌中のバクテリアは、約4分の1のDNAをプラスミドの形で持っている (98)が、その多くは余剰と思われる(50)。一般的には、付加されたDNAがもたらす重荷と、それを補う利点とを対比して考えなければならないであろう。

5.20 野生の生物の生存能力に注目した調査から、GEOに内在する弱点を擁護する論が高まっている。人工的に育てられた現代の植物種は、介入でヒトの保護を受けなければ、その環境の中で長く存続することはできないということがよくある。農業を目的とした遺伝子操作ではこの特質を変えるつもりはないということが、我々にわかってきた。というのも、そうすることは、商業的に何の利益にもならないからである。環境の中で際限なく拡散し永久的に住み着いてしまうような生物をあえて導入することに、企業が興味を示すとは考えられない(81,83)。

5.21 しかし、ジャガイモのように、次世代以降に雑草となりうる作物はたくさんある。ジャガイモが深刻なしつこい雑草になりにくいのは、葉枯れ病と遅霜に弱いからである。もし、遺伝子操作によってそのような弱点を除いて、たとえば除草剤耐性を組み合わせて導入したとしたら、その結果生れる植物はたいへん厄介なものになるであろう(54)。分別のある人なら、そんな植物を放出するようなことはしない。だからといって、自らの実験に没頭した企業やその他の研究者らが、受入れがたいリスクを示した導入についうっかり手を出すことが決してないはずだとは言えない。

5.22 生物の「適合性」を評価する際には、進化の過程を考慮する必要がある。自然界で起きるあらゆる介入には、絶えず変化するという背景がある。たとえば、特定の殺虫剤や抗生物質の効力は、標的となる生物が進化して耐性を持つにつれ、減少していく。似たような過程によって、GEOの放出がもたらす利点についても、同じことが言える。同様に、放出後のGEOは、自然の淘汰に対し自ら適応してゆく。丁度、1950年代のイギリスとオーストラリアでウサギの数を抑えるために放出された粘液種(Myxoma)ウィルスが、進化して毒性が弱くなったように(61)。進化論的な適応の成り行きを予測することは容易ではない。選択が、複雑な方法でゲノムの関連部位に作用することを示す証拠がますます増えている。最近研究室で行われたバクテリア群の実験では、余分遺伝子物質が拮抗的適合性を低下させるという最初の状態から、同じ遺伝子物質が拮抗的便宜を与えるまでに進化した(58,90,93)。

遺伝子の転移

5.23 新しい宿主生物に挿入された遺伝子が、環境放出後にほかの生物に転移し、望ましくない結果をもたらす恐れがあるのではないかという議論が数多くなされている (8,48,94)。GEOの放出にともなうリスクを評価するに際し、遺伝子、特に新しい遺伝子が拡散する範囲が定まっていないということは重要なポイントである。ある状況下で、遺伝子は一つの生物から別の生物に移動することがある。たとえば、プラスミド(パラグラフ3.5)はバクテリア間を移動する (92)。遺伝子はまた、自然繁殖(natural reproduction)のプロセスを通して、世代間を移動することもある。たとえば、遺伝子操作された動物と、操作されていない動物との交配によって生まれた子が、導入遺伝子を受け継ぐことがある。遺伝子操作された植物も、花粉の飛散によって、導入された遺伝子を拡散することが考えられる(89)。

5.24 除草剤耐性植物の開発により、遺伝子が転移する可能性について懸念が高まっている。しかし、われわれが入手した証拠(81)によれば、挿入遺伝子の大半は、他の生物内ではあるが、すでに自然界に存在していると思われる。それが事実だとすると、GEOの放出は、環境の中に存在し転移の可能性を持つような遺伝子の数を、わずかに増やすだけということになる。それでもまだ心配の声はなくならないだろう。われわれに証拠として示された一つの仮説的な例は、トウゴマ(castor oil plant)から得られた毒性の強いタンパク質、リシン(ricin)の遺伝子をトウモロコシに導入するというものである(81)。もし、食用のトウモロコシの一部にそのタンパク質が生成されるようなことがあれば、ヒトや動物の命は重大な危険にさらされることになるであろう。トウゴマが普通に自生している所のように、この遺伝子が自然に数多く存在する場所でも、おそらく同じことがいえよう。

5.25 しかし、被害の可能性が、見かけより少ない例もある。たとえば、セルラーゼ遺伝子を持つ生物には、木の主要成分であるセルロースをこわす作用がある。だから、セルラーゼ遺伝子を持つ新種の微生物を放出することは、好ましいことではないと思える。実際には、これらの遺伝子は、炭素サイクルの一部を担う生物の中にあり、すでに環境に広く分布しているはずなのに(81)、生きている木々が分解されることはない。このような放出の計画は、慎重に評価して重大なリスクがないことを確認する必要があるのはもちろんであるが、推定だけで反対することもないであろう。

5.26 もちろん、遺伝子の濃度が高いからといって、遺伝子転移が大規模に起きるということはない。Bacillus thuringiensis(Bt)というバクテリアは、移動性の強いプラスミドの上にいて、多数の昆虫に毒性を示す物質を生成する遺伝子を持っている。Btは殺した昆虫の中で非常によく増殖するという事実と相まって、その遺伝子がほかのバクテリアに移動する機会が生ずると予想される。しかし、今まで知られている限りでは、この毒性遺伝子が他の種類のバクテリアに広く分布しているという事実はない。このことは、理論的には容易に移動ができるにもかかわらず、実際はめったに動くことがないことや、受け手となるバクテリアにとってこの遺伝子が有利に働くことはないということを示している(107)。ところが、仮にBt毒性遺伝子が植物に挿入されると、花粉の移動によってほかの植物に広がる恐れがある。今後の成り行きとして考えられるのは、次の2つである。一つは、当初の標的以外の昆虫が影響を受けること、もう一つは、毒素に対する抵抗性への淘汰圧が増加することである。

5.27 従来の育種方法による作物の中には、病気や昆虫に対する抵抗性などの特徴を獲得していることがよくある。花粉が関連遺伝子を他の植物に移動させる(その植物は選択の利(selective advantage)を得ることになる)能力をもつにも関わらず、昆虫抵抗性などの問題が起きたという話は聞いていない。それでも新たに操作された生物については、導入された遺伝子は広く拡散できるという前提からはじめ、それからその前提に挑んでいくというのが賢明であろう。

危険な生物を生み出すリスク

5.28 遺伝子操作が、非病原体を病原体に変化させるのではないかということが、特に懸念されている。病原性には、多数の遺伝子の複合的な作用が関わっている。病原微生物は、宿主生物の細胞にとりつき、標的の防御メカニズムに抵抗し、毒性物質やその他の攻撃メカニズムを作り出し、一つの宿主から別の宿主に拡がり、宿主間で生存し続けるということができなければならない(35,48,81,88,92)。しかし、非病原体微生物の中には、すでにこれらの特性の多くを備えているものもあるので、その遺伝子のちょっとした変化によって、何かの拍子に非病原体微生物を病原体に変化させてしまうことがないよう、注意が必要である。別の可能性として、単純な遺伝子操作によって無毒の病原体が有毒になる(8)こと、既存の病原体が宿主の範囲を広げること(88)などがあげられる。同様に、ある遺伝子を削除することによって非病原体に変化した大腸菌の一株が、その遺伝子の復活によって病原性を取り戻すことが可能となる。ある植物ウイルスの中には、たった一つの遺伝子が存在するか否かで、無毒性か毒性かに分かれるものがある(62)。その遺伝子を削除すると、ウイルスはさらに強い毒性で植物に害をもたらすことになるであろう。一つの遺伝子の変化はまた、特定のウイルスの攻撃対象となる植物の範囲を変えることすらある(48)。

5.29 微生物の病原性と同じく、植物の「雑草性(weediness)」は通常、おびただしい数の遺伝子に左右されている。しかし、ある種の作物は該当する遺伝子をすでに多く持っていて、実際、周知の雑草と近縁関係のものもある。この点については、油糧種子の菜種とオート麦の例ですでに述べている(パラグラフ4.26、5.10)。遺伝子の小さな変化が、植物の雑草化を大きく促進することがある(48)。

5.30 無害な生物を、不注意にも、環境に有害な生物に変身させるリスクは低いと思われる、というのがわれわれの結論である。しかし、必要な遺伝子をあらかじめ持つ生物を操作する時は、ヒトや環境に脅威を与えるものに変身することが決してないよう、細心の注意を払う必要がある。

ウイルス

5.31 ウイルスに関わる遺伝子操作については、前の章で述べた(パラグラフ2.24、3.12、3.15)ように、遺伝子を他の生物に挿入するベクターとなる場合と、自身が操作の対象となる場合がある。ウイルスの中にはヒト、動物、植物の重大な病気と関連するものがあり、しかもウィルス性疾患の治療に効く薬がほとんどないという理由から、特に懸念する声が上がっている。

5.32 ウイルスのゲノムは非常に小さいので、一つの遺伝子だけで全体の25%を占める。対照的に、動物、植物、それにバクテリアでさえ、一つの遺伝子が占める割合は、ゲノム全体の0.001%から0.1%を過ぎない。ウイルスの一つの遺伝子の変化が、宿主域、毒性、持続性などのウイルスの性質に、重大且つおそらく予測できない影響を及ぼすことがあり、それが動植物の一つの遺伝子の変化がもたらしうる影響よりはるかに大きいのは、このような理由による。  

5.33 特にレトロウイルス(付録4)などのウイルスは、生殖細胞をはじめとする宿主のゲノムに、遺伝子を導入することができる。そうすると、次世代で発現が認められることがある。そこで、特に動物の遺伝子操作では、それらのウイルスが有用なベクターとなる。しかし、この過程が宿主のゲノムの隣接する遺伝子配列(adjacent sequences)を活性化するのではないか、というリスクが出てきた(付録A、パラグラフ15)。さらに、レトロウイルスは宿主の遺伝子情報をコピーして、自分のゲノムに組み込むことができる。これによって、たとえば宿主の範囲を広げるとか、ほかの予期せぬ形質を獲得することで、レトロウイルスの特徴を変えることができる。Advisory Committee on Genetic Manipulation(63,68)が発行したレトロウィルス関連研究のガイダンスは、特に、このような問題の発生を防ぐことを目的として書かれたものである。

5.34 ウイルスに関する懸念から、西ドイツの諮問委員会(Commission of Enquiry)をはじめとするいくつかの団体が、遺伝子操作されたウィルスは、ワクチンを除き、今の段階で一切放出してはなならないと勧告するに至った(パラグラフ9.6)。もちろん、全てのウイルスが病気を引き起こすというわけではないが、ウイルスの研究は、その対象がヒト、動物、植物のいずれであっても、病原体の取扱いと放出を管理する法に従わなければならない(パラグラフ7.14−7.16)。パラグラフ2.24で述べたように、多くの場合、ウイルスは安全で有用な製品を作る可能性を与えてくれる。最大限の注意を払って、レトロウイルス、またはレトロウイルスを用いて操作された生物の放出に取り組むなら、遺伝子操作されたウィルスに関連して特に新しい制限を設けなければならない理由は何もない。

研究室でのGEOの取組みの経験

5.35 遺伝子操作科学の初期の発展段階で、研究者らは、未知の危害または予期せぬ危害を引き起こすおそれのある、研究室で実験に対し、一時停止を要求した(64)。リスクをめぐる議論の結果、検知されたリスクの程度に応じて、実験の封じ込めに関する協定ができた(65,66,67)。その後、研究室でGEOに関し活発に研究が行われ、偶発的放出というリスクも確認されたが、GEOを使ったことによって被害が生じたという報告はわれわれのところに一件もきていない。問題が起きなかったことで、実践者と規制当局者らは、大きな自信をもつようになり、厳しかった封じ込め条件が、次第に緩和されていった(35)。

5.36 初期の段階での不安は根拠がはっきりしていなかったが、潜在的リスクに対し、時宜を得た、注意深い、熟考された対処をすることが、安全操業を裏付ける有効な根拠になることを、経験が教えてくれた。現在、研究はさらに広い環境へと動き出しているが、研究室でのGEOの行動についての知識は過去と比較すると格段に増えているのに、野外でのGEOの行動についての知識との間には、いまだに大きなずれがある。

5.37 初期の不安にたいして世界的に科学者が立ち向かった責任ある行動が、この科学の更なる発展への自信を生み出す引き金となった。初めは注意深く、それから経験に照らして緩和していく、それが当時採用された方針であった。これまでと異なる標的や危害を相手に、科学者が新しい技術の段階にさしかかっている現在も、これは責任ある前向きな姿勢と言える。遺伝子の分野では、ほとんど毎月のように新たな知見が得られている。このことは、自然界で起きることについて多く知れば知るほど、社会は有害な放出を避けることが可能になるという結果をもたらしている。もっとも、放出を計画する際、新しい知識を十分考慮するという前提の上だが。新たな発見はまた、環境への新しいリスクが想定される自然のプロセスに、もっと意欲的かつ基本的に介入する道を開く。現在可能なことだけをもとにして、遺伝子操作生物の放出に対する制御システムを構築しても、十分とはいえない。科学者が新しい生物を開発するときに行使する創意工夫を考慮に入れることも必要である。

放出後のGEOの回収または撲滅

5.38 遺伝子操作生物やGEOからほかの生物に広がった遺伝子を、放出した後で根絶する必要が出てきたとしても、それは容易ではないという大きな問題が起きている。その問題点は、動物、植物、微生物によってそれぞれ異なる。羊や豚など大型の動物は、一般に容易に回収できる。最近の東アングリアにおける、逸出後のヌートリアの経験から、少し小さい哺乳動物の根絶は時には可能であるが、その努力は長期化し、コストも高くつくことがわかってきた(2)。鳥、魚、小型哺乳動物、昆虫などの動物は、一度放出されると、さらに回収の見込みはなさそうである。

5.39 遺伝子操作されたものもそうでないものも含む全ての植物は、機械的手法または除草剤を使って根絶することができるはずである。特定の除草剤への抵抗性を植物に導入する時は、その植物を枯らすほかの除草剤は、引き続き効力を持つようにすることは重要である。

5.40 いったん、遺伝子操作された穀物種が商業的に放出されると、それは従来の育種にも使えると思われる。そうすると、挿入された遺伝子は、その後、同類ではあるが異なる植物に入り込み、元の植物が開発された時には考えもつかなかった結果を招くかもしれない。操作された植物を従来の方法で交配させると、複数の導入遺伝子を持つ子孫が生まれる可能性がある。よくある選択マーカー遺伝子 (パラグラフ3.13)もまた、導入された特徴と関連して繁殖し、結果として導入遺伝子の異なった組み合わせが生じる。しかしその出所や効果についてはほとんど知識がない。たとえば、ある会社が、選択マーカーとして、抗生物質カナマイシンへの抵抗性を与える遺伝子を、たとえば第1染色体に有効な遺伝子と一緒に挿入する。別の会社は、カナマイシン抵抗性遺伝子を、第2染色体に有効な別の遺伝子と一緒に挿入するとする。栽培者は二つの植物をかけ合わせる。育種プログラムではよくあることだが、何回かの交配を続けるうちに、植物は多数のカナマイシン抵抗性遺伝子と、他の有用な遺伝子をあわせ持つようになる。そのような状況下では、導入した遺伝子を根絶することは極めてむずかしくなるであろう。我々は従来の育種技術の一つがもたらした次のようなケースの報告を受けた。それは、病気への抵抗性を与えるために導入された遺伝子が関わったもので、小麦の製パンの品質を損なう遺伝子を、不注意にも小麦に導入してしまうという結果をもたらした。その迷惑な遺伝子を根絶することは、困難であることがわかった(62)。

5.41 国際的な植物育種産業がとっている手法からすると、商業ベースの放出を考える時、作物の中の遺伝子は、栽培者の手によってほかの関係する植物に移されると想定したほうが賢明であろう。このことは、国際的な基準が必要となっていることを示唆している。現在商業的に使われている植物種の生きたサンプルを保存して、必要に応じ、不都合な特質を取り除くために元に帰すことができるようにすべきである。導入遺伝子の経過をはじめとする植物種の歴史を記録した、系統登録簿が必要である。また、導入遺伝子をもった生物が放出される前に、新しい遺伝子のDNA配列をはっきり特徴づけて、今後の参考資料とすべきである。

5.42 放出された微生物の回収や根絶は種々の問題を提起している。天然痘ウィルスは世界的に根絶されたが、これは、ヒト以外に宿主をもたない、病気がゆっくり広まっていった、臨床診断が非常に効率的であった、効果的で実用的なワクチンが入手可能であった、という特殊なケースであった(32,69,91)。ワクチン接種は、多くの場面で予防手段として有効視されている。ヨーロッパ大陸では、狂犬病の広がりを抑えようという試みがなされている(71)。イギリスで大発生した手足口病やその他の動物疾患は、封じ込め絶滅作戦で対処されてきた(20,32)。しかし一般に、根絶はむずかしく、お金がかかり、いつも成功するとは限らない。炭疽菌のように、微生物が胞子のような潜伏期を持つ場合、また別な問題が起きてくる。そのような時、感染地域を殺菌するだけでその微生物が根絶されたと満足しがちである(54)。イギリス国防省は最近、炭疽菌を使用した実験が行われたGruinard Islandで、汚染を除くためにホルムアルデヒドを使った(72)。

5.43 GEOまたはGEOから他の生物に広がった遺伝子が、環境からどこまで回収あるいは根絶できるのか、それは、放出が実施される前に考慮すべき重要な因子である。遺伝子操作は生物を弱体化させることもできる。そうなると、その生物は環境の中で生残することが不可能になったりむずかしくなったりする。パラグラフ6.26と6.27で述べるように、この方法は、実用性のある時だけ実施されるべきである。

環境中に存在するDNA

5.44 生物系のあらゆる成分と同じく、DNAは化学物質である。分子は異なる4つの成分で作られた鎖状をなしている。DNAの主な生物学的機能は、情報を運ぶことである(パラグラフ3.3-3.8)。DNAが生物学的に活性するには、特殊な方法で細胞に拾われ(taken up)、遺伝子器官(apparatus)に組み込まれなければならない。そこで正しい信号を全て運んでいれば、遺伝子情報が発現する(73)。

5.45 動物、植物、微生物の排泄、死、腐食という自然の営みの結果、大量のDNAが環境に存在する。これはフリーDNAと言われている。たとえば、イギリス人だけでも、一般的な腸内細菌である大腸菌のDNAを毎年約100kgも堆積している。このDNAは、他の多くの生体物質と同じく、通常、急速に分解される(73)。しかし、たとえば粘土質土壌(148)や河口(105)のような場所では、このDNAは粒状物質(particulates)上に吸収され、分解に対し抵抗性をもつようになる(103,148)。DNA吸収という自然のメカニズムを有する特定の細菌を使って、研究室で大規模に行われた実験により、DNAが遺伝物質に拾われ、組み込まれていくことが示された(104,106)。これが環境の中でどのくらいの頻度で起きるのか、そしてどんな結果になるのかについてはほとんど何も解明されていないが、環境内でのDNAの持続性や拡散について論じるとき、これは重要な要素となるであろう。

5.46 遺伝子技術の進歩につれ、既知の毒性作用に関連づけられ、特別に構築された膨大な量のDNA分子を作り出すことも可能である。もしそれが新規の病原体に改変する可能性をもっていたら、特に廃棄処理には注意を払う必要がある。さらに、化学的に改変された核酸分子が合成されることもありうる。これは、DNAの重要な特性をすべてあわせ持っているが、生分解には抵抗性がある(73)。この章で論じられたのと同じ考察は、RNAにも適用できる。

今後の道

5.47 この章では、GEOを環境に放出することの安全性に関わる問題点について論じた。これから先の章では、環境をリスクから十分に守るために必要な手続きや法規についての見解を述べる。ここで提案したいのは、予防的ではあるが実際的な規則の体系である。これによって、安全性問題が、事件が起きてから導入されるのではなく、むしろ技術の進歩の一部として取り扱われるようになるはずだ。この提案を面倒だと思う人もいるかもしれないが、われわれは環境を保護するために必要と信じている。さらに、放出の調査が不十分だったためにヒトの健康と環境に深刻な被害をもたらし、科学と科学者双方に寄せる国民の信頼を完全に失うようなことがあれば、遺伝子操作の環境への適用に最大のブレーキがかかることになるであろう。一般に、遺伝子操作に関わっている人々は、分別のある客観的な管理体系こそが、最も自分たちの利益にかなっていると認めている。後ろの章で述べる勧告がこの必要性に合致するとわれわれは考えている。また、知識がふえるにつれて適応が進み、その結果、新しい技術の応用が不当に妨げられるようなことがなくなる

5.48 多くの場合、生物学的産物の方が非生物学的産物より安全で公害も少ないと思われがちである。たとえば生物学的殺虫剤は化学的殺虫剤より選択的な管理を可能にし、有害残留物も少ないと言われている(35)。しかしわれわれは、広範な生物学的管理が選択的産物より支持されるのは、経済的な根拠によるものと思わせる証拠を得た。それは、後者の商業市場は広範な産物の市場より狭いからである。選択的で、容易に分解する化学的殺虫剤で、有害な残留物を残さず、人体に無毒、そんなものが作られたら、生物学的産物をしのぐことになるであろう。生物学的管理を熱望する声が多いからといって、この方面の研究をあきらめてはいけない。害虫の統合管理のような農業実践の発展にも引き続き注目していく必要がある。これは、殺虫剤による害の減少に役立つと思われている。

5.49 われわれは、遺伝子操作生物の放出に厳しい制限を設けることにより、非操作生物、特に微生物を選択して開発しようという機運が高まるかもしれないことを、承知している。第4章で述べたように、自然に発生する生物でも新しい環境に重大な影響を与えることがある。そしてその可能性は、非操作生物の選択、開発、生産、利用の技術がさらに改良されるにつれ、一層大きくなると思われる。環境にとってGEOと同じくらい大きな脅威となることもありうる。パラグラフ8.30で、このことをもっと深く考察するよう、勧告する。

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