前へ | 次へ

第2章 遺伝子工学の概要と適用

進化

2.1 一般に、地球上に生命が発生したのは約30―40億年前だと考えられている。人類は、およそ1000万種類以上の動植物とこの惑星を共有している。今日に至るまでの膨大な時間の流れの中で、数百万種類もの種が進化し、存続し、そして絶滅していった。

2.2 進化をとげる基本的なメカニズムは、100年以上前、チャールズ・ダーウィンが『自然淘汰による種の起源』(1)で提唱した。主な要素は三つある。まず、たいていの種において、成熟期まで生存できる個体数以上の個体が生まれてくるということ。次に、同一の個体は存在せず、変異体の違いのほとんどは遺伝的に決定されるということ(現在では、突然変異と遺伝子の組換えによって、遺伝的相違が生じることがわかっている)。最後に、生存競争の勝者になる確率は、すべての個体において等しいわけではなく、ほかに比べて生存しやすい変異体があるということ。この差別的な生存を、ダーウィンは「自然淘汰」と呼んだ。何世代も続いた変化(進化)の最終結果が、生物の形態と機能に現れているのである。

2.3 ダーウィン説によれば、新しい種の進化は非常にゆっくりした速度でしか起こらない。互いに異なる集団の中で、世代交代のときにごくわずかな違いが現れながら、数百数千もの世代を経ていく。そうした集団内で確立されていった違いが決定的なものとなり、もはや自然な状態では交配しない域にまで達したとき、二つの集団は二つの種に分かれていく。

2.4 実際は、上記の簡単な説明が示唆するよりも多少複雑だ。たとえば、イネ科のSpartina Townsendiiは塩湿地に生える草で繁殖力が強く、イギリスでは干潮時に現れる泥地の広範囲で認められるようになった。この新種は、自国のSpartinaとアメリカから移入された外来種間の雑種として、またたくまに進化したのはまちがいない。そして、どちらの親とも交配しない(2)。

2.5 その他のダーウィン・モデルの単純な点についても、議論が交わされている。たとえば専門家の一部は、化石を調べると非常に速い変化をとげた期間のあとに引き続いて、種の組成が長期間ほとんど変化しなかったと考えられる場合があるという(いわゆる「断続平衡」のこと)(3)。この解釈に異を唱える人々もいる。しかし、進化のメカニズムの正確な姿がどのようなものであれ、また、これ以外にもさまざまな可能性が指摘されているにせよ、集団の遺伝組成の変化は世代が変わるときに起こる。それらは突然変異や、受精時に遺伝子の新しい組み合わせができた結果かもしれないし、受粉などによるDNAの交換の場合もあるだろう。こうやって無数の新しい遺伝子組成が世代ごとに作られ、環境の「テストを受ける」。おそらくは非常に長い時間を経ていくうちに、新しい種は発達し、ほかの種は死に絶えてしまうのである。

品種改良技術

2.6 数世紀のあいだ、新しい系統を見つけるために、ブリーダーは植物や動物を選択して交配してきた。技術の洗練に伴い、動植物のブリーダーは、以前にも増して病気に強い、生産性の高い、質のいい、ほかにもさまざまな経済的な価値のある特性を備えた植物や、外見や生理機能などが優れた動物を作れるようになった。伝統的な品種改良プログラムが達成した変異体の例としては、キャベツ、カリフラワー、芽キャベツ、ブロッコリー−これらはすべて同じ種の変異体であるが(図版1)−グレートデン、コーギー、ペキニーズなどがある。

2.7 商業的な品種改良技術がいっそう洗練されてくると、次第にその場は特殊な設備を備えた研究室に移っていく。しかしながら、本質的には、自然な生殖過程に頼っていることに変わりはない。目的は人間にとって利益のある変異体を産生することだが、これまではたまたま生じていなかったり、もしくは生じたにしても、元来その種にとって利益とならないため自然界に確立されてこなかったりしたものだ。実際、それらは持続的な人間の介入なしには存続できないだろう。

2.8 望ましい性質のみを備えた植物を人工的に選択し、集中的に繁殖させる方法が主流になるにつれ、品種改良技術は、自然界の進化と比べると瞬間と呼べる速い速度で新しい変異体を開発できるようになった。とはいえ、新しい変異体といえども程度の差であって、これまで発達してきたものの延長線上にあるにすぎない。一般的に、この方法による形質の選択と改良は、環境にダメージを加えないと考えられている。しかし、田園地帯の環境には明らかな変化が起こっており、基本的に現代的な品種や植物種を育てている事実を物語っている。さらに、作物の中には最適な収穫量を得るために、灌漑や大量の肥料や殺虫剤など、人工的なサポートが欠かせないものもある。これらのファクターも環境に影響をおよぼすものといえよう。

遺伝子工学は何が違うのか?

2.9 従来の動植物品種改良法は数世紀にわたって進歩してきたが、それでもやはり限界がある。その最大のポイントは、異系統同士や、同属の変異種同士をかけあわせられないことにあった。この40年間で遺伝子の構造と操作の鍵となる部分の理解が進み、以前は不可能だった方法で遺伝子を構築していく新しい道が開けた。6−7ページの表に、遺伝子工学を発展させる基盤となった重要な出来事をあげる。

2.10 1953年のクリックとワトソンによるDNA二重らせん構造の解明は、1970年代にはDNA鎖を特定部分で切断することによって断片化できるという発見につながっていった。1972年に、そうやって得られた断片は、同じ様にして切断された断片と「つなぎ合わせる」ことができるという事実が明らかとなった。この発見により、生物から特定の遺伝子を取り除く技術、同じ生物の異なる場所の遺伝子と差し替える技術、もしくは完全に異なる生物の遺伝子と交換する技術への道が開けた。いずれの場合にしろ、移動した遺伝子は適当な条件下で複製もすれば機能もする。この方法を用いれば、ある生物の形質を、それとは無縁の生物に発現させられる。従来の品種改良法だけではなしえなかったことであった。このテクノロジーについては第三章で述べる。

2.11 遺伝子工学で作られた生物には、異なる種の生物が所有する遺伝情報を含むことができ、それらの特徴を示すようになる。こうした生物は、従来の品種改良法であれば数年間、進化であれば千年間を要しただろうが、数日から数週間で作られてしまう。これらは研究室の産物であり、自然界でその生物が増殖していく場合、決して起こりえないような遺伝子の組み合わせをもつこともある。

「遺伝子工学発展の基盤となった出来事」

1860年 動植物が新しい細胞を産生するための細胞分裂の原則が発見される。
1860年代 グレゴール・メンデルのエンドウマメの実験が、遺伝形質に優性と劣性という現象があることを示す。
1869年 フリードリヒ・ミーシャーが核酸――すなわちDNA――を分離する。
1870年代 ヘルマン・フォル、オスカー・ヘルトヴィヒ、エドアルド・ヴァン・ベレデンが有性受精を詳述する。
1878−81年 W・フレミングとE・ザカリアが細胞核の染色体を同定する。
1900年 DNAの全塩基が分離同定される。子牛の胸腺からDNAが抽出され、酵母菌からRNAが発見される。
1930年代 H・J・マラーがキイロショウジョウバエ(果実のハエ)の突然変異を検討する。
1935年 パット・リーヴェンがDNAを構成している基礎単位の構造と、それらがどのように集まってくるのかを解明する。
1940年 アーチボルド・ギャロッド、ジョージ・ビードル、エドワード・テータムが、1遺伝子――1酵素の関係を導き出す。
1940年代 動物細胞の組織培養が発達する。
1943年 オズワルド・T・エイヴリー、マクリン・マッカーティー、コリン・M・マクラウドが、DNAに生命の情報がコードされているという形質転換の原理を提唱する。
1940年代 ライナス・ポーリングとロバート・コーリーが、タンパク質がらせん構造をもつことを示唆する。
1950年 ハロルド・C・ユーリーとスタンリー・L・ミラーが模擬実験を行い、地球上で初期の生命体が誕生したころの環境と考えられるものを示す。生命に必要不可欠とされる単一分子を産生させるのを目的とした。アンモニア・メタン・水の混合液に、電流の火花を通した。
1950−53年 アーウィン・シャルガフがDNAの塩基、アデニン−チミン、シトシン−グアニンの量に関する規則性を同定する。
1951−53年 ジェイムズ・ワトソンとフランシス・クリックが、ロザリンド・フランクリンとモーリス・ウィルキンズの撮ったX線の結晶構造から、DNAの二重らせん構造を導き出す。

遺伝子工学発展の基盤となった出来事

1952年 マーサ・チェイスとアルフレッド・ハースリーがウイルスを用いた研究で、遺伝情報がタンパク質ではなくDNAに含まれていることを示す。
1953年 フレデリック・サンガーらのグループが、インシュリン・ホルモンのアミノ酸配列を完全に解読する。
1960年 アーサー・パーディー、フランシス・ジャコブ、ジャック・モノ、シドニー・ブレンナー、フランシス・クリックが、タンパク質の発現におけるメッセンジャーRNAの役割を同定する。
1960年代 セヴェロ・オチョア、マーシャル・ニーレンバーグ、フィリップ・レダーが、遺伝暗号のRNAコドンはほとんどすべての細胞に共通していることを示す。
1960−65年 マーシャル・ニーレンバーグ、G・コラーナ、セヴェロ・オチョアの研究室が、アミノ酸を作る遺伝暗号の単語を同定する。
1965年 フレデリック・サンガー、ウォルター・ギルバート、アラン・マクサムが、DNAとRNAの塩基配列決定法を考案する。
1958−65年 フランシス・ジャコブとジャック・モノが、細菌の調節遺伝子の構造を 仮定する。
1970年 ハミルトン・スミスらが、制限酵素を分離し機能を同定する。
1972年 ジャネット・マーツとロナルド・ペイヴィスが、制限酵素によって切断したDNA断片同士を再結合できることを示す。ピーター・ロバムとデイル・カイザーが、どのようなDNA分子でも二つを再結合させられる一般法を開発する。
1975年 モノクローナル抗体が作られる。
1977年 初めてヒト遺伝子のクローンが作られる。
1982年 アメリカとイギリスにおいて、遺伝子工学によって作られたインシュリンの糖尿病患者への使用が認められる。
1987年 フィールド実験として、遺伝子工学によって作られた微生物が初めて環境に流出される。

出典:
I Rosenfield, E Ziff, B Van Loon (1984). ‘DNA for Beginners’. Writers and Readers Publishing, Inc.
D Freifelder (1983). ‘Molecular Biology − A Comprehensive Introduction to Prokaryotes and Eukaryotes’. Jones and Bartlett Publishers, Inc, Boston, USA.

遺伝子工学の定義

2.12 パラグラフ1.1で説明したように、遺伝子工学は、生物のひとつまたはそれ以上の性質を変えるため、意図的に遺伝子を変化させることに関係している。従来の動植物の品種改良法(パラグラフ2.6−2.8)も目的は同じであり、また、その技術も進歩していることから、遺伝子工学と区別しがたい状況が生じている。さらに、遺伝子工学の科学も飛躍的に発達していることから、遺伝子工学を厳密に定義するのは難しい。

2.13 遺伝子工学の本質的な特徴は、生物の核酸を意図的に「工作する」という概念にある。したがって、他の生物からの遺伝子の挿入、遺伝子の再配列や重複、遺伝子の欠損、新しい遺伝子の構成などが行われる。こうした遺伝子工学の概念から生れた技術に、組み換えDNA(rDNA)技術(パラグラフ3.10−3.16)、マイクロインジェクション(パラグラフ3.16)、プロトプラスト融合(パラグラフ3.17)などがある。

2.14 プロトプラスト融合の技術は、従来の植物品種改良法でも行われている。同じ種の有機体を用いた場合(同一種内融合)、以前であれば何世代にもわたる系統的な交配が必要だった結果を得ることができる。しかし、それだけではなく、これまでの伝統的な手法では不可能だった異なる種同士の交配(異種間融合)もできるようになった。我々の定義の範囲から、従来の植物品種改良法によるプロトプラスト融合を除外する適当な理由はないと考える。

2.15 9ページの表に、遺伝子工学に関する5種類の定義をあげる。欧州委員会(the European Commission)と安全衛生委員会(the Health and Safety Executive)の作成案(定義3および4)が、ほぼ我々と同じ視点で適当な範囲をカバーしている。しかし、該当する細胞や生物に自然環境下では起こりえない遺伝物質の組み合わせに限っている点が問題だと考えている。したがって、自然に起こりえることか否かについての議論を深めていきたい。我々の考えでは、遺伝子工学によるものとするかどうかは、用いた技術によって決まるものであり、その結果が自然環境下でも起こりえるかどうかで決まるものではなく、生物をそういった基準で単純に除外するべきではない。特に、自然界でよく見られる遺伝子の欠損について注意を要する。我々がこのように考える理由を、パラグラフ5.17で説明する。

2.16 定義というものは、つねに専門家が再検討を重ね、必要に応じて新技術の位置づけを明らかにし、かつ経験に照らして修正を加えていくことが重要である。

放出の定義

2.17 環境への意図的な放出については、安全衛生委員会(the Health and Safety Commission)の定義を用いることとする。すなわち、「その生物(すなわち核酸)の環境への拡散を最小限に抑えるために、特殊な手法、設備、装置、もしくは施設などの物理的なバリアを設け、封じ込める準備を整えることをしない」という説である(7)。この定義は、完全な封じ込めを確約できるシステムはないこと、さまざまな放出の判断基準は存在しえないことを認識している。たとえば、遺伝子工学によって作られた羊が牧場にいても、柵できちんと封じ込めておけば、環境放出したことにはならない。それに対して、遺伝子工学によって作られた微生物が同じ牧場にいれば、流出と考えられる。なぜなら、牧場の柵は微生物の封じ込めに適当とは言えないからだ。

「定義」

1.イギリス―遺伝子操作の安全衛生に関する規制(Health and Safety (Genetic Manipulation) Regulations)、1978年(4)

「遺伝子操作とは、その細胞外で作られた核酸分子の挿入によって、新しい組み合わせの遺伝物質を形成することを意味する。ウイルス、細菌プラスミド、その他のベクター・システムなど、挿入するために用いる手段は問わず、いずれの場合も宿主の生物に核酸分子を取り込ませ、自然条件下では起こりえないが持続的な増殖が可能となる配列を作る」

2.アメリカ合衆国―組み換えDNA分子に関する研究のためのガイドライン(Guidelines for Research Involving Recombinant DNA Molecules)、1983年6月(78)

「本ガイドラインにおいて、組換えDNA分子は次のいずれかに該当するものとする。(i)生きた細胞の外で、自然あるいは合成のDNA断片を生きた細胞内で複製可能なDNA分子に結合してできたDNA分子、(ii)前記の(i)から複製されたたDNA分子。注:有害となりうるポリヌクレオチドもしくはポリペプチド(たとえば毒素や薬理学的活性物質)を産生するような合成DNA断片は、本来のDNAと同等であると見なされなければならない。また、合成DNA断片が生体内で生物学的活性のあるポリヌクレオチドやポリペプチドを産生しない場合、本ガイドラインは適用されない」

3.欧州委員会:遺伝的に改変された生物を意図的に環境へ流出することに関する委員会指針案(Draft Council Directive on the deliberate release to the environment of genetically modified organism)、1988年3月(6)

「遺伝的に改変された生物とは、交配や組換えに対して自然が設けたバリアを越える方法を用いて遺伝物質を変化させた生物(複製能力をもつ多細胞、単細胞、亜細胞を含む)を指す。別表1に、そのような遺伝的変化をもたらす技術を示す」

別表1には、組換えDNAやマイクロインジェクションなどの技術のリストが載っている。

4.イギリス―遺伝子操作規制案(Proposed Genetic Manipulation Regulations)、1989年(7)

「遺伝子操作とは、細胞や生物外で遺伝物質を組み合わせ、これを自然界では起こらないような細胞や生物に導入し増殖させる技術であるが、このような導入操作は、
 a. 直接、あるいは
 b. その細胞や生物に取り込み可能なウイルス、微生物プラスミド、その他のベクター・システムを介して行なわれる」

「生物とは、複製能力をもつあらゆる生物学的存在を指す(顕微鏡的か否かを問わない)」

 環境における意図的な放出のために、この規制案は以下の文章を対象として付け加えている。「自然界ではその細胞や生物に生じない遺伝物質の配列を作ることを目的に、試験管内での細胞融合、もしくはその他の試験管内で行なわれる技術を用いた遺伝子操作により、産生もしくは改変されたあらゆる細胞や生物」

5.アメリカ合衆国―アメリカ議会技術評価局(US Congress Office of Technology Assessment)、1998年(8)

「本研究において、〈遺伝子操作生物〉という用語は、ほとんどの場合、組み換えDNA技術を介して遺伝物質を加えた、もしくは欠損させた生物を指す。しかしながら、この使い方は絶対的なものではない。なぜなら、いくつかの規制機関(米国環境保護局など)の登場によって、この用語はより広範囲に用いられるようになったからである。本研究で論じられる遺伝もしくは環境問題の中には、厳密な意味での組み換えDNA技術によらないもの、たとえば細胞融合などによって産生された生物について検討しているものもある」

バイオテクノロジーと遺伝子工学

2.18 現在、遺伝子工学は、広範におよぶバイオテクノロジー分野の中の一つに位置づけられている(*)。バイオテクノロジーは、製品やサービスの製造過程に、生物学的な力を用いて、科学や工学を応用することと定義される(10)。チーズの製造や醸造が初期の例である。

―欄外―
*「バイオテクノロジー」という言葉が使われ、それを用いたさまざまな作業の重要性が認識されるようになってから50年以上がたつ。ジュリアン・ハクスリー卿は、L・ホグベン教授による講演に先立って次のような紹介をした。「現在用いられている装置や技術は、これから達成できるものに比べれば、ほとんどが粗雑で原始的なものにすぎません。生物学は、生命を持たない物質の科学と同じくらい重要なのです。そして将来的には、バイオテクノロジーが機械や化学の工学技術よりも重要になるのはまちがいないでしょう」(The retreat from Reason, Hogben L, published by Watts and Co, 1936)

2.19 現代のバイオテクノロジーには、遺伝子工学技術を用いたものも、そうでないものも含まれる。ある場合、たとえばビネガー製造所や高度封じ込め研究施設などで、生きている生物が閉鎖システムの中で用いられている。一方、生物が意図的に環境に放出されたり、使用されたりしている場合がある。以下の表に例を示す。

生物 閉鎖システム 開放環境
遺伝子工学を用いたもの 発酵槽内での酵母菌による抗凝固製剤の産生 霜害を防ぐために「結氷する遺伝子を除いた」細菌を植物に散布
遺伝子工学を用いていないもの ビネガーの製造 イギリスでウサギの個体数をコントロールするために粘液種ウイルスを導入

2.20 もちろん、前述した従来の品種改良法を用いて作った多くの動植物が、これまでにも環境放出されてきた。また、外来の寄生物や捕食物なども、植物の害虫をコントロールすることを目的に、19世紀半ばから放出されてきている。たとえばカリフォルニアでは、柑橘類につくある種の害虫をコントロールするために、オーストラリア原産のテントウムシ、ベダリアテントウ(Vedalia)が移入された。また、昆虫、ダニ、魚などが、生物学的除草剤として使用されている(38)。従来から環境に放出されてきた特定の微生物もある。窒素固定力のある細菌リゾビウム(Rhizobium)は、窒素固定力のある植物の栽培を促進するため、ほぼ一世紀にわたって世界各地で広範囲に用いられている(92)。多くの国で、窒素固定力のある植物の種子は、植える前にリゾビウムを含有した水溶液で被覆される。細菌のBacillus thringiensis(Bt)系は、市販の農薬として、農業や林業で20年以上も使われ続けている(107)。また、自然に存在するウイルスをもとにした農薬が、少なくとも20種類以上市販されている(38)。

2.21 これまでのところ、遺伝子工学によって作られた生物の商業利用は、もっぱら閉鎖システムに限られている。ほとんどが医学分野のもので、細菌や酵母菌によるヒト・インシュリンの産生(9)や、診断用キットの製造(16、17)などがそれにあたる。現段階では、意図的な放出は試験的なものにとどまっている。1988年の初めまで、そのような放出が行われたのは、世界中で約30回であった。しかし1988年に入ると、植物に関する試験的な実施数は劇的に増え、その年の終わりには、約80回も環境への試験的な放出が行われた。イギリスでは、試験的放出はこれまでに6回行われている。いずれも農業や林業で利用価値のある生物を調べるものである。まもなく最初の商業製品ができあがり、そこには除草剤に抵抗性のある植物や、害虫に抵抗性のある植物なども含まれるだろう。

2.22 遺伝子工学製品の1987年の世界総売上げは、1年間で約4億ポンドと算定される。そのうちの約半分が診断用キットによるもので、残りが少数の薬剤やワクチンによるものである(11)。それに対して、東洋圏を除いた製薬産業の年間総売上げは、600億ポンドと算定される(12)。しかし、新種の種子、除虫剤、除草剤が商業利用されるようになれば、遺伝子操作生物とその製品の総売上げ額は加速度的に増えていくと予想される。種子と農業用化学製品に関して、遺伝子工学製品が世界市場に占める割合は、40億ポンドと算定されている(11)。遺伝子工学技術の進歩によって、放出回数、放出される生物の種類や放出の規模が著しく増えていくであろう。

遺伝子工学で作ることができる製品

2.23 医学分野では、遺伝子工学は、ワクチン、薬剤、診断用キット、その他の製品の開発に用いられてきた。遺伝子工学的に作られたワクチンの例としてはB型肝炎(13)、診断用キット(16、17)にはB型肝炎などの疾患、ほかに血液抗凝固製剤などがある(14、15)。何らかの手段で遺伝子を患者の細胞内に挿入して行う遺伝子治療は、遺伝子由来の疾患、たとえば鎌状赤血球貧血などの治癒につながるだろう(18)。

2.24 農業分野では、植物にBachillus thuringiensisの毒素遺伝子を挿入することによって(19)、害虫抵抗性を有する植物を開発中である(図版8)。また、ヨレハマツを毛虫の被害から守るための試みとして、別種の技術も開発されている(20、21)。すなわち、自然のウイルスよりも効率よく毛虫を攻撃するウイルスを製造中だ。こうした製品は、化学農薬の使用とそれに伴う環境問題を激減させていくであろう。タバコモザイクウィルス(22)や他のウイルスに抵抗性をもつトマト苗も、遺伝子工学的に開発が続けられている。植物が生育環境から栄養を吸収しやすくするような微生物を製造できれば、肥料の使用量も減らせるだろう。作物にダメージを加えることなく除草剤で耕作地の雑草を除去できるように、除草剤に負けない植物の製造にも入っている(23、24)。動物管理の分野では、動物用のワクチンが開発されており(25)、遺伝子工学的に疾患抵抗性をつけられれば、疾患を減らし、さまざまな治療薬剤の使用も減らしていけるだろう。

2.25 ヘルスケアと農業以外の分野では、遺伝子工学的に作られた生物は、まず食品の加工に商業利用される可能性がある(26)。また、鉱業の場合は重金属の回収を目的に、流出した石油をコントロールする場合は水質浄化を目的に、また一般的な汚染のコントロールに対しても、環境放出された生物を使用できるだろう(27、28)。たとえば、自然界の微生物は、すでに銅の採取、有毒廃棄物の化学物質減少のために用いられている(156)。さらに新しい生物はより長期的に見た場合、木材や石油など従来の燃料の代わりとなるものを生み出したり(157)、産業工程のコントロールを助ける「バイオセンサー」の役目を果たしたり、医学の診断に用いられたりすることも考えられる(158)。

2.26 ここまで述べてきたのは、平和利用に関するものである。それ以外にも、遺伝子工学は、軍隊やテロリストが使う生物製剤の製造や改良に用いられる可能性がある。遺伝子工学とは無関係な製剤を用いたときと同様に、言うまでもなく、こうした利用に伴う潜在的な破壊力は著しく大きいだろう(159)。生物兵器の開発、生産、貯蔵は、1972年の生物兵器禁止条約によって禁じられており、イギリスのほか110カ国が批准している。戦争での生物兵器の使用は、1925年のジュネーヴ議定書でも(化学兵器の使用も含め)禁止されている。1972年の生物兵器禁止条約は、1986年の再検討会議で、4つの自発的な信頼醸成措置が導入され、内容が強化された。これには、高度の封じ込めを必要とする生物学的物質の研究、正常パターンから逸脱する感染症の流行などについての情報交換が含まれている。次の再検討会議は1991年が終わる前に開かれるだろう。禁止条約の内容を広く伝え、生物学的科学の進歩を隠さずに公開することは、新技術が平和的な目的以外に乱用されるのではないかという恐れを減少させるために役立つと言われている(34)。

2.27 遺伝子工学のこれからは、1950年代初期の農業化学産業に対する展望になぞらえることができよう。遺伝子工学事業の範囲はまだ狭いが、近い将来に拡大していくと予想され、経済と社会の発展に重要かつ予測のつかない結果をもたらすと考えられる。1950年代にそうだったように、製品――当時は化学製品で現在は生物であるにせよ――が用いられる環境への影響よりも、製品の特徴の解明のほうが進んでいる。さまざまな実験や過去の経験から学んでいき、環境に対する見通しを立て、新製品に必要な規制を設けていかなければならない。

前へ | 次へ