石川 今回から、産業レベルまで拡大された組換えDNA技術の安全論議に視点を移し、それがOECDにおいていかにScienceに基づいて行われたか見ていきたいと思います。
増田 1974年の全米科学アカデミー・Berg委員会のモラトリアムの宣言および1975年のアシロマ会議から出発した組換えDNA技術の安全性に関する考え方は、科学的事実に基づく論議を経て、1982年にはNIHガイドラインの禁止条項の全面解除と免除の拡大という措置により、大幅緩和が実行された。これは組換えDNA実験の「原則禁止」から「原則自由」へという安全コンセプト上の大きな転換を意味した。大量培養に関しても、機関内安全委員会(IBC)の事前の検討と許可により実験できることとなった。今振り返ると、米国における組換えDNA実験の安全論議は1980年代初期におけるこれらの一連の措置によって、事実上、決着したわけです。
それに続く国際的な動きとして、「大量培養」と「意図的な環境放出」の2点についての科学的論議の場がOECDに設置された。それはちょうど、組換えDNA技術という技術革新がバイオサイエンスの研究に不可欠な新しい技術として広く定着すると同時に、産業技術としても大変有望な技術として期待されるようになった時期でもあった。その意味でOECDにおける安全論議はそれまでの科学的論議を踏襲し、その延長線上の論議として位置づけられつつも、「科学と実験の世界」から「行政と産業の世界」に論議が広がったという点で、新しい展開であった。
石川 では、まず安全論議のレビューに入る前に、経済協力開発機構(Organization for Economic Cooperation and Development、OECD)という国際機関の性格をご説明していただきたいと思います。
OECDでの論議の背景
増田 OECDは経済先進国25か国で構成する国際機関で、単に経済問題にとどまらず、軍事と政治以外は何でも扱うという広範な活動を行っています。OECD科学技術政策委員会(Committee for Scientific and
Technological Policy、CSTP)の役割の一つは、新しい技術分野の誕生を見守りながら関連する科学技術政策を論じ、問題があると判断すればその解決に努力することです。組換えDNA技術についてもその動向を見守ってきた結果、これは革新的な技術であると考えた1)。そしてこの技術の産業化に際し国際調和という観点から安全性の論議の必要があると考えた。
「科学の世界」での安全論議をふまえて産業技術としての組換えDNA技術の安全問題を「行政の世界」で捉えた場合、どう考えたらよいかということがCSTPの課題となった。OECDという機関は「経済成長への寄与」や「貿易障害の防除」を目標にしている。一方、安全論議は加盟国の「規制問題」のあり方に必然的に関連してくる.各国の既存の規制制度はそれぞれ異なった歴史的背景に基づいているわけだから、これを国際的に調和させようとするならば、科学的議論とは異なるものとなりかねない。そこで組換えDNA技術のような新しい技術については各国が別々に規制を始める前に科学的論議をベースにOECDが先取りして考え方を示すことによって新たな貿易障害が発生することを未然に防止しようとした。
CSTPは1983年7月に「バイオテクノロジーの安全性と規制に関する専門家会合」の設置を決議し、1985年6月までに産業化段階における組換えDNA技術の安全確保についての専門家会合の考え方をCSTPに報告することを決めた。
石川 OECDでの安全論議が始まる前、大量培養の取扱い、あるいは産業化に関する日米欧の状態はどうであったのでしょうか?OECD加盟国の中から、まず米国、英国、日本をそれぞれの地域での代表として選び、そこでの動きをレビューしたいと思います。まず米国からお願いします。
内田 1980年代の初期は組換えDNA技術が大きな商業的成果を生み出すかもしれないという期待からくるフィーバーのような雰囲気を科学者も企業も感じていた時代でした。この頃NIH(米国国立衛生研究所)ガイドラインは急速に緩和されていきます。しかし重要な点はこのガイドラインの対象はNIHの研究補助金を受けている研究に限定されていたことです。そこで、企業の中には穏やかでバランスのとれた規制の策定をむしろ歓迎する声もあったのは事実のようです。企業化するためには、社会の認知(PA)を得る手段が必要だと企業側は感じていたのかもしれません。科学者はガイドラインの廃止に向かい、一方企業は最低限の規制を要求するという離反した状態が生じました。当時の状況をNature誌の記者D.Dicksonは同誌1979年3月29日号で、「米国の製薬企業は組換えDNAガイドラインの改訂を(政府に)迫っている」と報道しました2)。企業化のためには大量培養が必須ですが、公的なお墨付きを得るためにその安全性の確認を仮にNIHに自主的に申請するとすれば、製造工程(プロセス)の詳細な情報の提供を迫られる。それは知的所有権を確保する権利の侵害になる、というのがGenentech社やEli Lilly社の主張であり、NIHガイドラインに対する批判でした。米国の制度では監督官庁のかかわるべき問題はプロセス(工程)ではなくプロダクト(製品)である、と理解されていたからです。
1980年3月のNIHのRAC(組換えDNA諮問委員会)会合での議論の結果、大量培養の物理的封じ込め施設の基準案が発表されましたが、小規模実験のための基準の容量を拡大し、名称を付け替えた(P1、P2、P3をそれぞれP1-LS、P2-LS、P3-LSに)にすぎず3)、従事者の教育、医学的サーベイランス、事故対策、従事者の感染予防は含まれず、また議論に生産従事者の直接の参加もありませんでした。
1981年7月にはEK系、SC系、それにBS系を宿主・ベクター系とする組換えDNA実験はNIHガイドラインから完全に免除されました。1981年9月開催のRAC会合において、大量培養実験に関しても組換えDNAが厳密に性格付けられていることを条件に4)、IBC(機関内安全委員会)の事前の検討と許可により実施できるところまで緩和されました(本座談会第7回を参照)。
石川 英国ではどういう動きだったのでしょうか?
内田 英国政府はWilliams Report(1976)5)に基づき、1977年に遺伝子操作諮問グルプ(Genetic
Manipulation Advisory Group、GMAG)を5年間の時限で教育科学省(Department of Education and
Science)の下に設置して組換えDNAの安全性問題に対処しました。英国の科学者は組換えDNA問題を危険病原体の問題と混同しないよう注意しました。GMAGを厚生省(Department of Health & Social Security)に付属させるより教育科学省に付けたことはこの点で有効でした。しかし、英国特有の問題として組換えDNAについても従事者の安全を考慮しなければならないという社会情勢がありました。英国では作業従事者の職業上の安全と保護を目的とする法律(Health and Safety at Work Act)に基づき、衛生安全執行機関(Health
and Safety Executive, HSE)という機関があり、事業所に対して査察、閉鎖、罰金等の権限を持ちます。そこでGMAGはその指導、助言の内容については法的責任をとらないが、GMAGの忠告に従っていればHSEに咎められない、という形でGMAGに強制力を付与しました。最初のGMAGはCIBA財団のG.Wolstenholme卿を委員長として、科学者と医学者8名、市民代表4名、作業従事者代表4名、企業経営者代表2名により構成されました。GMAGの方式は個々の研究計画の審査という経験を積み上げていって徐々に「判例法的な」判断の基準を組み立てていく、といういかにも英国らしい仕組みでした。まだ実験に基づく知識が不足していると考えられる状態では、実験の開始前に個々にGMAGに相談し忠告を受けることが最善であり、米国のNIHのように詳細なガイドラインを書く(いわば、まず「憲法」を制定して矛盾が出ないかぎりこれを順守する)のは時期尚早であり、すべきではない、というのがもともとの英国式考え方でした5)。
物理的封じ込めについてはWilliams Report5)はカテゴリーI、II、III、IVを提案し、これはNIHガイドラインのP1〜P4と対応すると考えられるが、細部を見ると英国基準の方がより厳しい規格を要求しているようです。例えばカテゴリーIには安全キャビネットを要求し、カテゴリーIIでは出入り口での気流が実験室内へ流れることを指定している。GMAGは米国NIHとは全く違う考え方で大量培養問題を処理しました。すなわち、実験と大量培養はそれぞれ個々に判断することとし、「両者の統一基準」という考え方は採用しませんでした。裏返せば、企業に対しては個別的な現地検査を含む柔軟な審査が実際上可能でした。英国での大量培養の扱いに関する具体的情報は米国に影響を与え、結果的には米国と英国は大量培養の封じ込め基準の緩和を競い合うこととなります。1980〜1981年頃になると米国では大量培養のためにP1-LS以上の施設は実際上必要なくなりましたが、英国でもGMAGの審査無しにほとんどの大量培養がGMP(Good Manufacturing Practice)ないしカテゴリーI基準で実施できるようになりました。いずれにしてもGMPの承認は受けなければならないからとの理由でGMAGは大量培養のための個別施設の査察は省略し、GMAGへの通知(notification)のみで済ますこととしました。このようにして米国のRACと英国のGMAGはほぼ同時期に大量培養の審査をなくしたわけです。
石川 英国がGMAGの存在を既存の法律のみによって担保した策は、後にGMAGが不要になる状況を見越した策と理解できますね。
内田 緩和が進んだ結果、1981年6月以降、カテゴリーII以上の実験は3件、1981年12月以降にカテゴリーIIIまたはIVは皆無となり、GMAGの審査事項は実際上なくなりました。5年間の時限終了によりGMAGを教育科学省から切り離し、HSEの下に移すことが1982年11月に提案され、Advisory
Committee on Genetic Manipulation(ACGM)が設置されました。委員は経営者5名、従業者5名、HSEが推薦する科学者8名から成りました。市民代表は省略され、社会および倫理の考察はACGMの守備範囲を越える、との理由でとりあげられませんでした。
炭田 1980年代初期は他のヨーロッパ諸国にとっても新しいバイオテクノロジーの到来を目のあたりにして、興奮に満ちた時期であったようです。EC委員会(Commission of European Community)では科学・研究開発を担当する第12総局(DGXII)が中心となって、ECとしての国際競争力を高めるべくバイオテクノロジー戦略の枠組みの策定に専念していました6)。1983年2月にEC委員長のThorn氏が公式のスピーチで初めて「バイオテクノロジー」に言及しました。英国のみならず、フランス、オランダなどもバイオテクノロジーの安全性確保は既存の制度で可能であるというスタンスでした。ちなみに、ヨーロッパでは1986年がバイオ規制に関するターニング・ポイントと言われています。この前後から環境論者が台頭し、特にデンマークやドイツではバイオの法規制へと急速に傾斜していきます。
石川 その頃の日本の状況はどうだったのでしょうか?
内田 日本は「原則封じ込め」という米国のNIHガイドライン(1976)を基にした実験指針を1979年に策定しました。その後、1982年になってNIHガイドライン(1978年改訂版)のレベル近くまで緩和したばかりであり、国際的な安全論議への参加はまさにこれからという状況にあった。一方、日本の発酵工業は、抗生物質、アミノ酸、核酸の分野でめざましい発達を遂げ、1980年代には米国に次いで世界第2位の地位にありました。戦前にうまみ調味料としてのグルタミン酸ソーダを発見し、その工業生産の成功に端を発したアミノ酸工業の発展は特に有名です。1986年現在で全世界のアミノ酸の生産が年間30万t、その内の20万tは発酵法により、その60%は我が国が占めていました7)。表1にアミノ酸ごとの年間生産量と製法の一覧表を示します。特に発酵法については多くのアミノ酸に関して日本の国内生産量がすなわち世界生産量であることに注意してください。
日本のアミノ酸発酵の歴史を振り返ると、戦後に米国の発酵工業から技術導入により抗生物質生産の化学工学的基盤を学んだ経験が役立ったと評価せざるを得ません。グルタミン酸は脱脂大豆を塩酸加水分解したアミノ酸混液から抽出する方法によって生産していました。1960年にMicrococcus glutamicusがブドウ糖から直接に多量のグルタミン酸を作ることが明らかにされて、我が国独自の技術開発としてアミノ酸発酵の工業化に成功しました。さらに微生物遺伝学の知識を活用して得た変異株を用いてリジン、スレオニン、ホモセリン、アラニンなどを生産することに成功し、アミノ酸の生産方法に大きな転機を与えたことは特記されてよいと考えます。単なる有用菌株の収集といういわば幸運に依存した抗生物質の探索方式を一歩進めたエンジニアリング的発想が明らかに認められます。一方、微生物から酵素を生産、利用することは高峰博士のタカジアスターゼに始まりますが、その後微生物からのアミラーゼ、プロテアーゼ系を中心とする酵素生産は我が国の特技となっています。さらに固定化酵素技術の発展は我が国の発酵工業をさらに賑やかな分野とさせました。
表1 アミノ酸の生産量および製法(日本必須アミノ酸協会推定、1990)
品名 |
推定生産量(t/年) |
主な製法 |
|||||
世界 |
国内(%) |
発酵 |
酵素 |
合成 |
DL分割 |
抽出 |
|
グリシン |
6,000 |
5,500(91.7%) |
|
|
● |
|
|
石川 日米欧の状況を要約するとどうなりますか?
増田 まず基本的に言えば、米国におけるNIHガイドライン廃止論にみられるような「組換えDNA技術に特有の危険性(リスク)はない」という科学的事実と科学的論議に基づくコンセプトは、残念ながらその時点ではいまだ、多くの国で一般市民も含めて広く国内的合意が得られるレベルまでには浸透していなかった。そのような状況のもとで米国も英国もそれぞれの立場から国際的な合意が得られる論理を組み立てることによって組換えDNA技術の産業化の推進をバックアップしたいという思いがあったと推定されます。
内田 米国は組換えDNA技術の実用化段階を迎え、広く社会の認識を得るためにも、国際調和のための安全論議をOECDの場で経済先進諸国と至急に行うことが必須と考えていたに違いない。一方、英国はケース・バイ・ケースの判断によって組換え体の大量培養を実施していた。米英両国ともに産業化段階における大量培養について実質的な規制は無い状態でした。いかなる場合には規制が必要ないのか、何を防ぐために規制がなければならないか、についてだんだん不明瞭になってきた時期でした。このような状況で日本は発酵工業に経験の蓄積があり、大量培養の諸条件についての安全性の議論をする上で国際的なニーズに応えうる状態にあった。
OECDでの安全論議の枠組み
石川 OECDでの安全論議はどのように進められたのでしょうか?
内田 CSTPは組換えDNAのリスク評価を三つに分けて考察することとした。①組換え体のリスクについての基本的考え方、②大規模工業利用(すなわち大量培養)、③環境および農業利用。①の「組換えDNAにはリスクが伴うかどうか」という論点をとりあげたのは、加盟国内の技術後進国と技術先進国の安全性に関する考え方の国際調和をOECDの場で達成するためと考えられます。②の大規模工業利用はすなわち大量培養であり、上に述べたように米国、英国、日本などが特に論議したいメインテーマです。③の環境および農業利用は意図的な環境放出による利用です。
②と③を区別して論じるという言い分には一見、説得力があるように思われますが、今から振り返りますと、実態は大量培養の実施において非意図的に微生物は環境中に出る。さらに②と③との中間とも言えるカテゴリーも存在するから(例えば食品とか生ワクチン)、②と③には連続性がある。しかしながら、結果的にはデータの蓄積不十分な③は後回しにして、とりあえず②を中心に論議しよう、という形で進められました。
増田 我々は生物を有効利用する生物化学産業(バイオインダストリー:発酵工業、食品工業、医薬品工業など)について長年の経験の成果を享受してきたわけです。特に②について論議する場合、この経験の中に組換えDNA生物を対象として含めることとなったとき、安全性の基本的コンセプトにどのような修正が必要なのか、あるいは必要ないのか、どういう考え方の筋道でアプローチするかがOECDでの議論の大きなポイントであった。
OECDでの論理は加盟国の技術レベルの高低にかかわらず、誰にも分かりやすいことが必要です。そのためには「工業利用の安全性」は「実験の安全性」の単純な反復ではなく、「科学的知見」に基づきつつ、加盟国の多様な国内事情も視野に入れて新しいコンセプトを用意することが必要であった。
「実験段階」と「産業化段階」の違いを考えるとき、何よりも「科学」と「技術」の歴史の長さの違いに注目することが重要だと思います。「実験段階」とは研究段階であり、そこで主として役割を担うのは「科学」であり、「科学的思考」です。そして「科学」の歴史はルネッサンスの時代から考えても数百年です。一方、「産業化段階」で主な役割を果たすのは「技術」であり「経験」です。「技術」は「科学」の存在する以前の時代から存在した。つまり人類の存在と共に進歩し、「科学」よりは遥かに長い歴史を持っています。人類は「科学」がなくても「経験」に学んで安全に技術を活用し、安全に微生物ともつきあって生活してきた。「科学」と「技術」の歴史の長さの差こそが「実験段階」と「産業化段階」の安全論議の差を作り出した。
内田 「経験」がそのまま「科学」にはなり得ないが、「科学」のみから「安全」が結論されるものではない。「安全」の判定には「経験」が重要な因子である。「発酵工業における日本の経験」がOECDでの安全論議に大きく寄与したことは誰もが認めるところです。
GILSPコンセプトの開発
内田 OECDの安全論議は「科学的であること」を標傍していますが、主として行政官の集団であるCSTPが科学的発見をするわけではありません。実質は各国から参加している専門家の意見・考え方が提起され、各国の立場をふまえ、しかも科学的ベースを失わないように留意しつつハーモナイズしていく仲介役としての役割を果たしてきたといえます。そこで大量培養の安全論議を整理すると、大きく分けて三つの異なる意見がありました。①小量(10L未満)で安全なものは大量(10L以上)でも安全である。小量と言えども菌数から言えば非常に大きな数である。②リスクは培養量が増えるほど高くなる。したがって、大量培養については個々のケースごとに安全性を評価する必要がある。③安全か危険かの論議には結論が出ない。とりあえず封じ込めておけばよいではないか、というものです。
まず米国のNIHの考え方は、組換えDNA技術が導入しうる新しい機能には限界があるとの科学的認識を基本とし、分子遺伝学、病原細菌学の膨大な科学的データの蓄積を背景に我々の予想を越えるような未知の領域が無くなっている、との科学的認識のもとに安全性を強調するという説得法です。確かにこの方式は大腸菌K12株のように科学的データをそろえて公開できる場合には正攻法かもしれないが(第6回を参照)、工業化段階での大量培養ではデータ(知的財産)の公開という局面でたちどころに窮地に陥った。
一方、すでに触れたように英国流の経験主義は米国の理念と離反する性格を持っています。OECDの専門家会合の議長を務めたR .Nourishが経験を重視する英国人であり、判例法(Case Law)的な考え方が彼の基本にあったことは重要であったと考えます。
論議の結果、OECDのアプローチとして「経験」を論拠に持ち出した。「安全な産業利用の長い歴史(Long History of Safe Industrial Use)」がそれである。「安全とは100%保証できるものではない」ことさえ認めれば、我々の過去の経験は有力な安全の証拠である。昔(とは言っても1948年)、英国の哲学者Bertrand Russelは言葉の性格を論じ、世の中には「言葉で説明できる概念」と「実際に物を見ないと理解できない概念」がある、とした8)。彼は後者をOstensive definitionと呼んだが、安全の概念も明らかに事実が証明するもので、いくら言葉で説明しようとしても具体的に定義できない。「百聞は一見にしかず」、いや「百言は一経験にしかず」である。
酒屋、味噌屋が無数にあり、酒、味噌、醤油、納豆などの醸造・発酵食品が生活に浸透している国、アミノ酸調味料、抗生物質に日常世話になっている国では、長期にわたる安全な工業利用の実績は公衆が実感を持って受け入れる。よく知っている菌との比較なら、組換え体については相違点についての詳細なデータを示し、納得いくまで説明が可能である。
炭田 OECDでの論議のとき日本は発酵工業の経験をベースにどのようなケースを想定し、どのようなコンセプトを提起したのでしょうか?
内田 日本は長年の発酵工業の歴史をふまえ、まず過去長年にわたりアミノ酸、抗生物質酵素などの工業生産に用いられてきたBrevibacterium属、Corynebacterium属、放線菌、枯草菌などを宿主とする組換え体の使用を、新たに組み込まれたDNAの性格がはっきりしているかぎり安全と考えました。装置体系については、アミノ酸などの生産用の主要設備と同様のもので構成されれば安全と考えた。管理運営についても、組換え体および宿主微生物自体についての安全性が評価された上での工業生産であり、特殊な付帯条件の場合を除いては、健康診断、記録の保存を含め、基本的には現在の発酵工業において実施されている管理運営方法に基づけば適切かつ安全であろうと考えました。
日本が提起した考え(条件)はOECDの論議でとりあげられ、優良工業製造規範(Good Industrial Large-Scale Practice、GILSP)という新しいコンセプトを生み出し、承認されました9)。「安全な利用の長い歴史」を論拠とするこのコンセプトは、OECD第一ラウンド(1983〜1986)の議論を決定づけるものであるとともに、OECD第二ラウンド(1988〜1994)での論議にも大きな影響を与えることになります。
OECD理事会勧告と日本の「産業化指針」
石川 OECD第一ラウンドの論議の結果はOECD理事会勧告として採択され、いわゆる「ブルーブック」9)として公表されました。
内田 1986年に発表されたOECD理事会勧告「工業、農業および環境で組換え体を利用する際の安全性の考察に関する勧告」9)の重要な項目をご紹介します。組換え体の安全論議についてOECD加盟各国が共通の理解を持つことが国際貿易の促進と貿易障害の防除への第一歩であるとの認識の下に、CSTPの提言を理事会がOECD加盟国へ勧告しました:
| ① | 組換え体の使用を規制する特別の法律を制定する科学的根拠は存在しない。組換え体のハザードは他の生物と全く同様に評価、管理できる。 |
| ② | 組換えDNA技術の大規模工業利用に際しては、本来リスクの少ない生物をできるだけ利用し、GILSP基準(優良工業製造規範)を順守する。またGILSP基準のみでは扱えないことが証明された場合には、有効性が長年の利用により保証された適切な封じ込め手法の追加が可能である。 |
| ③ | 科学的知見の現状を考慮すると、組換え体の農業および環境への利用(意図的環境放出)に適用される一般的な国際的ガイドラインの策定は現時点(1986年)で時期尚早である。 |
そして本文を見ると、「従来安全に使用されていた微生物にDNA断片を挿入し、新しい産物を作らせても、これら新しい産物自身が原因となる安全性課題以外に安全性考察が必要になる可能性は全く無い」と言い切っています。
炭田 ご存じのようにOECD理事会は、大臣レベルの参加による閣僚理事会を含む最高意思決定機関です。その審議の結果が加盟国に対し何らかの拘束力を持つものに「理事会決定」と「理事会勧告」があります。「理事会決定」は法的な拘束力を持つのに対し、「理事会勧告」は政治的コミットメントを示し、加盟国はその実施について道義的な義務を負います。
「理事会勧告」として採択されたという事は、加盟国間に高度のコンセンサスがあったことを意味し、OECD全体からみても重要な出来事であったと評価されます。加えて、「勧告」であって「決定」ではないところに、法的拘束力をもって是が非でも担保しなければならないような「危険なもの」でないとの共通認識が反映したのかもしれません。
増田 OECD理事会勧告が採択されたのは1986年7月ですが、通商産業省の「組換えDNA技術工業化指針」はそれに先立って1986年6月に制定されました。このことは日本がとりわけ学界の先生方のご指導のもとに、通商産業省や(財)バイオインダストリー協会、企業の方々、専門家の方々が、日本の長い発酵工業の歴史と経験をもとに、データに基づいてGILSPコンセプトを提起し、OECD理事会勧告の成立に大きな貢献をし、先導してきたことを示しています。実験ガイドラインの制定においては,
日本は米国よりも3年遅れていたわけですが、産業化指針の段階ではその遅れをこの時点でとりもどしたと言えます。関係者の努力の賜物と思い、感謝に堪えません。その後、厚生省も同年に「組換えDNA技術応用医薬品の製造のための指針」を制定しました。国際的な論議の中で日本がひとつの歴史に残る役割を果たしたことに大変なよろこびを感ずるとともに、こうした輝かしい歴史が引き継がれていくことを祈ってやみません。
石川 本号の座談会は企業の方々から資料のご提供をはじめいろいろなご協力をいただき、この場をお借りしまして、心から御礼申し上げます。またOECDの論議の過程は公表された資料が少ないため準備にいろいろ手間取りまして、座談会の休憩時間が若干長くなりましたことをおわびいたします。
○参考文献 |
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| 1) | Biotechnology-International Trends and Perspectives, OECD, Paris(1982) |
| 2) | D.Dickson:Nature,278, 385〜386(1979) |
| 3) | Federal Register, 45, 24968〜24971(1980) |
| 4) | Federal Register, 46, 53981(1981) |
| 5) | Robert Williams, Report of the Working Party on the Practice of Genetic Manipulati, presented to Parliament by the Secretary of State for Education and Science by Command of Her Majesty, Her Majesty’s Stationary Office. August(1976) |
| 6) | H.J.Rehm and G.Reed:Biotechnology(Economic and Ethical Dimensions)12, 505〜681, VCH(1995) |
| 7) | The Japan lndustrial and Technological Bulletin, No.14 (Special Issue),8, JETRO(1982) |
| 8) | Bertrand Russell, “Human Knowledge. Its Scope and Limits.” George Allen & Unwin Ltd.London(1948) |
Recombinant DNA Safety Considerations, OECD, Paris(1986) |
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