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第1章
生物学的リスク評価―政策と実施に関する主な問題の概要

ジョージ・T・ツォトス
UNIDO・ICGEBウィーン事務所(オーストリア・ウィーン・ウィーン国際センター)


 バイオテクノロジーが疾病を軽減したり持続可能な形での発展に役立つという長年の期待は、遺伝子組換え生物の本質的な安全性への懸念によって色あせてきている。初期の組換えDNA技術では、遺伝的相互作用が複雑であることに加えて実地での経験もほとんど蓄積されていなかったため、遺伝子組換え生物の取り扱いや環境への放出に慎重になるのは当然のことだった。いまでは組換え系の特性に関する豊富な知識や、バイオテクノロジーのさまざまな利用例から集められた膨大なデータがあるにもかかわらず、いまだにこうした懸念は収まっていない。途上国では、自国が新たに作られた組換え産物の試験場にされるのではないかと敏感になっており、警戒が時には恐怖心に変わっている。この種の問題は、途上国が遺伝子工学の利用によって得てしかるべき恩恵に往々にして暗い影を落としてきた。
 このような憶測あるいは現実の懸念に応えて、1985年に国連工業開発機関(UNIDO)、国連環境計画(UNEP)、世界保健機構(WHO)は、バイオセイフティに関する非公式の作業部会を結成した。1991年には国連食糧農業機関(FAO)が加わり、この作業部会は拡大した。本書はこの作業部会の委託を受けて作成されたもので、科学者や規制当局がバイオセイフティの基礎となる主な問題を概念化するのを支援するとともに、こうした人々が、バイオテクノロジーに対する規制政策にそれらの問題が与える影響について、理解を深めることを意図している。
 先に述べた豊富な科学データや知識は、バイオセイフティに関する国際的な論争を解消するには至っていない。バイオテクノロジーに関する規制の整合化を図ろうとする試みも、ほとんど成功していない。これは、急速に発展する科学の最先端領域に、国際的な規制が追いついていないためである。また、次の点が各国間で明らかに違っているためでもある。

  1. バイオテクノロジーに関する国民の認識
  2. 産業政策
  3. 規制能力

 こうした相違が存在し続ける限り、単一の規制について国際的なコンセンサスに達するのは難しいかもしれない。
 国民の認識を形成し、ひいてはバイオテクノロジーを受け入れるか否かを決定する要因については本書の第2章で扱うため、ここでこれ以上検討する必要はない。

産業政策

 先進国の場合、世界市場のシェアを維持・拡大する上で、遺伝子技術の商業利用が戦略的な重要性を持っている。途上国の場合、まずそうはなっていないのは明白で、そうした国々では、バイオテクノロジーの商業利用を行う力がほとんどない一方で、伝統的な遺伝学的手法が国の富の創出に大きく貢献する可能性はやはりある。
 バイオテクノロジーの最先進諸国では、民間投資が技術革新やタイムリーな製品開発と直接結びついており、早期に投資収益を上げるには商品化が不可欠である。とりわけ行政上の障害による遅れは、投資リスクを高め、製品開発を阻害する大きな要因であると考えられている。
 規制は、企業にとっては製品開発戦略の構築における最大の検討事項に、国にとっては産業政策全体の一部分になってきている。規制監視の緩和を押し進めることは、資本を大量に投入して達成した技術的優位を維持するための取り組みの一環としてとらえる必要がある。組換え製品の急速な増加によって生じている要請に対して、産業界が受け入れることのできる期間とコストで対応するのに、現行の規制制度ではかなり限界があるというのが規制緩和の根拠である。現行の規制制度の構造的欠陥は、法外な費用と時間を要する煩雑な官僚的手続きや過剰な試験手順として現れてきている(De Greef, 1991)。規制の理念が科学の進展によって根底から崩されていることや、遺伝子組換え生物、製品の取り扱いに関する経験が蓄積されたことは、規制を見直す十分な理由になると考えられている。
 手続きの見直しを求める上で挙げられている主な論点は、「工学的な(engineered)」遺伝子組換えは、「伝統的な(conventional)」手法を用いる場合に比べてはるかに遺伝子の発現を予測することが可能であるのに加えて、導入遺伝子が持つリスクは、概念上、自然の生物や「伝統的な」技術を用いて改変された生物を使用するのに伴うリスクと、その本質は違わないというものである(NAS, 1987)。このことは法律の理論的根拠そのものを無効にするが、この根拠として、多くの国は遺伝子組換え製品を作りだす手法をもとにしている、という主張がある。規制の重点は製品の安全性、品質、有効性に置かれるべきである(製品またはリスクに基づく規制)、というのがこの主張の結論である(Wyngaarden, 1990)。プロセスに基づく規制を続けることは、今日まで安全に利用されてきた技術を不当におとしめることになる。
 現在の傾向では、技術に基づく規制から、製品あるいはリスクに基づく規制へと政策が一定の収斂をみせ、それにつれて審査の手続きが簡素化されるとみるのが妥当である。これは、食品の場合(毒性、アレルゲン性、栄養価の不足など)のように生物学的リスクのエンドポイントの性質を見極めることが比較的容易な場合のほうが簡単である。一例をあげると、食品の安全性については、規制当局による審査を簡素化しようとする直接的な試みとして、現在、実質的同等性の概念が議論されている。「安全性評価の必要性と程度は、新たな食品と、従来の食品でそれに類似するものがあればそれとの比較に基づいて行われるべきである」というのがその概念である(Miller & Flamm, 1993)。バイオテクノロジーの他の利用分野では、簡素化に向けたさらなる試みとして、最終的には、規制当局の監視対象から遺伝子組換え生物、遺伝子操作による製品や手法に関するグループを除外することになるかもしれない。
 ただし、環境への適用に関しては、潜在的な危険性を簡単には明らかにできないことが多く、導入遺伝子と生態系の相互作用も把握する必要があるため、遺伝子導入の最終製品だけに目を向けたのでは不充分である。自然に起きるものや「伝統的な」手法を使った場合に比べて格段に広範囲の遺伝形質を組み合わせることができる遺伝子組換え技術の威力は、環境の安全にかかわってくる(Tiedje et al., 1989)。したがって、遺伝子操作の手法は、規制当局による監視の発端として便利に使われる可能性があるものの、リスクのほうは、遺伝子組換え生物の特性だけが評価される可能性が残されている。製品に基づく規制よりも、一種の混合型アプローチのほうが、行政の簡素化という観点からみても望ましいという提案がなされている。製品に基づく規制は、根拠となる理論的な前提がしっかりしているにもかかわらず、明確なリスクレベルに基づいて生物を分類するのが難しいことから混乱が生じる可能性がある(Lesser & Maloney, 1993)。

規制能力

 先進国のバイオテクノロジー規制は、予防的に行われてきた。つまり、バイオテクノロジー製品が市場に出るずっと以前から規制が定められていたのである。途上国の様相は、これとは著しい対照をみせている。一握りの国を除いて、遺伝子組換え技術による製品を対象とする法律は、現在までのところ制定されていない。こうした規制の欠如が技術移転進展の障害になっているわけではないが、多くの遺伝子組換え製品をすぐにも試験して商品化したいという要請が高まるにつれて、こうした状況は変わるはずである。
 プロセスに基づく規制という時代遅れの概念から脱却すると同時に、官僚主義による新しい法律の立案・制定の遅れを排除する有効な方法として、現行法を改正して組換え技術の利用や組換え技術による製品を対象に含める提案がなされてきた。しかし、こうしたアプローチの妥当性に関しては、その実行可能性や、環境面での規制の場合には概念の健全性を根拠に、疑問が投げかけられている(本書第7章、128〜130ページ参照)。
 別のアプローチとして提案されているのが、規制の代わりにガイドラインを導入するというもので、これは規制には柔軟性がなく、科学の進歩や社会のコンセンサスの移り変わりについていけないためである。これに対してガイドラインは、こうした変化に対して適時かつ行政の介入を最小限に抑えた対応をするのに必要な柔軟性を持っている(Persley et al., 1992)。これは理屈の上では正しいが、大部分の途上国には、過去にガイドラインや行動規範に自主的に適合した実績がないという事実を見落としている。そのため、規制を実施するには、法律が唯一の方法かもしれない。解釈を許容する広範な規定と、定期的な見直しと改正を行うための条項を取り入れることによって、産業や社会の要請の変化に十分対応できる柔軟性を与えられると思われる。
 どのようなアプローチでも、その妥当性を最終的に決めるのは、規制が遵守されているかを監視・把握できるかどうかである。言いかえれば、生物学的リスクを特定、評価、管理する能力である。大多数の途上国には、全般的にこの能力が欠けている。この理由は、別の場所で十分に分析されてきた(Cohen and Chambers, 1991)。生物学的リスクを評価する国の能力を強化する上での国際機関の果たす役割が、次の節の主題である。

国際支援の仕組み

 バイオハザードの特定とその影響の評価は、遺伝子組換え生物そのものに固有の特性、導入遺伝子と受容環境の相互作用および標的生物・非標的生物への潜在的影響に重点が置かれている。数多くの生物学的手法が提案されており、それに対する評価や批判も出ている(Strauss, 1991)。これらはまた、本書の各章で扱う中心的なテーマでもあるが、いずれもリスク予測に対する批判的な論法を武器にしているといえばここでは十分だろう。一部の手法は、方法論的に精密であるにもかかわらず(環境汚染委員会、1991年、GENHAZ)、資源への負荷が大きすぎるとして却下されている。とはいうものの、遺伝子組換え生物の放出に関する安全性を確認する上で答えることが求められる疑問の大部分に対する優れた「道案内」として取り上げる価値はある。
 リスク評価が「定性的あるいは批判的な」性格を持つのは、科学の広範な学問分野をカバーする専門知識を根拠としている。先進諸国の場合、規制の制定や実施は、国の制度としての委員会や専門家による小委員会によって行われている。こうしたモデルを途上国で再現するには、大多数の国々の力をはるかに超えた制度、人材、財源が必要になる。規制政策の立案や、さらには具体的な野外試験に際しても、国際的な開発機関の支援が求められている。
 途上国における遺伝子組換え製品の環境への放出のリスクを評価するために国際的な専門委員会を設置することは、短期的には有益だが、長い目で見たときのそうした委員会の限界も知っておく必要がある。遺伝子組換え製品の実用化試験や商業利用が実施される場所とそれに伴う費用が幾何級数的に増加するという圧力の下で、国の制度に代わるものとして行う活動を維持するのが難しいということになるかもしれない。
 国の制度としてのバイオセイフティ委員会の権限や運営の枠組みを定める際の支援は、バイオテクノロジーにおける国の能力を強化する上で長期的にプラスの効果を持つ可能性がある。バイオテクノロジーによる社会経済的なメリットに対する認識を向上させ、技術移転を可能にするために不可欠のステップの1つとして、このような委員会を政府に設置させる上で、国際機関は重要な役割を担っている。リスク評価手法の分野における科学者や行政官への研修に対する国際支援は、コスト効率のもっとも高い方法である。バイオセイフティの基盤となる科学的概念の教育が不足していることが、一般国民のとんでもない誤解を招き、非生産的な行政措置につながっている。したがって、人材の育成は、バイオテクノロジーの推進にかかわる国際機関によって提供される支援政策の不可欠な一部でなければならない。
 最後に、仮にヒトや動物の健康や環境に対する安全性を損なうことなく人材や財源に関する要請を減らせるとしても、リスクの内容に関する判断から定量的なリスク評価へと移行するための本格的な取り組みを行わなければならない。現在までのところ、これはほぼ不可能に近い課題である。その理由は、リスク評価の担当者が情報を引き出さなければならない科学的データベースは、膨大な専門領域(一例として、生物学的リスク評価に必要なデータのリストを以下に示す)を対象として含んでいると同時に、データが驚異的なペースで集積されているためである。

生物学的リスク評価に必要なデータ(一例)

  1. 親生物(分類学、分子生物学、生理学、生殖に関するデータ)
  2. 遺伝子組換え生物(分子生物学、生殖に関するデータ)
  3. 遺伝子導入の方法
  4. 導入の方法、量、頻度
  5. 導入遺伝子の動態(運搬、複製、移行、定着)
  6. 導入遺伝子産物および中間代謝産物の毒性
  7. 毒性を示す量
  8. 感受性の高い非標的生物
  9. 非標的生物への影響
  10. 区域の特性
  11. 生態系への影響

 既存の各種データベースはその設計が一様でなく、巡回・検索やデータの収集に混乱が生じている。さらに、実証済のモデルがほとんどなく、一方で出力したデータを他方で入力する必要が頻繁にあるという事実が、全データベースのそれぞれ異なる部分を統合したり定量化することをきわめて困難にしている。したがって、生物学的データの管理と、リスク評価においてデータを解釈したりモデル化できるツールを利用できるかどうかが、手法の有効性と信頼性を左右することになる。
 生物学的リスク評価の分野では、知識システムの技術は発展の初期段階ではあるが、規制手続きの円滑化や人的・金銭的資源の削減に利用することが可能である。最終的には、専門家委員会の意思決定を支援する有用なツールの1つになるはずである。
 したがって、生物学的リスク評価のための統一的な情報支援環境への投資は、おおいに注目するに値する。そうした環境には透明性が求められ、高度な情報管理システムと、通信やデータベース検索の統一方式が必要になる。これらは、実現の程度の差はあるにせよ技術的に可能である一方で、あくまで国際協力の結果として、こうした提案を可能にするのは、課題の大きさと民間部門との連携の必要性である。
 リスク評価の科学的本質や、リスク管理に関連してあまり明確になっていない問題を理解する上で、本書が役立つことを願っている。途上国の読者は、科学の発展や国際的な規制政策と足並みのそろった監視体制を整えるためのヒントが本書から得られるかもしれない。

参考文献

Cohen, J.I. & Chambers, J.A. (1991) Biotechnology and biosafety: Perspective of an international donor agency. In: Risk Assessment in Genetic Engineering, Levin, M. & Strauss, H.S. (eds), pp. 378-392. McGraw-Hill Inc., New York.

De Greef, W. (1991) Regulations and the future of agricultural biotechnology. Agrofood Ind. hi-tech, 2, No. 4, 3-7.

Lesser, W. & Maloney, A.P. (1993) Biosafety: A Report On Regulatory Approaches For The Deliberate Release Of Genetically Engineered Organisms ― Issues And Options For Developing Countries, p.19. Cornell International Institute for Food, Agriculture and Development (CIIFAD), Ithaca, NY.

Miller,H.I. & Flamm,E.L. (1993) Biotechnology and food regulation. Curr. Opin. Biotechnol., 4, 265-268.

NAS (1987) Introduction of Recombinant DNA-Engineered Organisms into the Environment: Key Issues, p.5. National Academy Press, Washington, DC.

OECD (1986) Recombinant DNA Safety Considerations, p.41. OECD, Paris.

Persley, G.J., Giddings, L.V. & Juma,C. (1992) Biosafety: The Safe Application of Biotechnology in Agriculture and the Environment, p.10. International Service for National Agricultural Research. The Hague.

Royal Commission Environmental Pollution (1991) 14th report: GENHAZ. HMSO, London.

Strauss, H.S. (1991) Lessons from chemical risk assessment. In: Risk Assessment in Genetic Engineering, Levin, M. & Strauss, H.S. (eds), pp.297-318. McGraw-Hill Inc., New York.

Tiedje, J.M., Colwell, R.K., Grossman, Y.L., Hodson, R.E., Lenski, R.E., Mack, R.N. & Regal, P.J. (1989) The planned introduction of genetically engineered organisms: ecological considerations and recommendations. Ecology, 70, 298-315.

Wyngaarden, J.B. (1990) The future role of biotechnology in society. In: Advances in Biotechnology, p.260. Swedish Council for Forestry and Agricultural Research, Stockholm.

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