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第1回 モラトリアムからOECDまで

石川 これまでOECDのバイオテクノロジー安全性専門家会合(Group of National Experts on Safety in Biotechnology、略してGNE)は、バイオの安全性に集中して議論を展開してきたわけですが、1994年の4月から開始した新しいマンデート(事業計画)では安全性も含めたより広いバイオテクノロジーの技術の問題、産業化促進の問題をどう扱うかというようなテーマに拡大しました。このへんで一度、組換えDNA技術に関するこれまでの安全性の議論をレビューして、今後の新しい展開のために備えたいと思います。このレビューを対話の形で展開しますと、これまでの流れが非常に理解しやすいのではないかと考えまして、本座談会を企画しました。
今日は内田先生と増田さん、それに炭田さんにお集まりいただきました。内田先生は組換えDNA技術ができましたときに、文部省、科学技術庁の組換えDNA実験指針に関与されて以来、主要な省庁の組換えDNA技術委員会の委員長または委員として重要な役割を果たしてこられました。
また、この技術に関連のある17の学協会が組織します遺伝子操作協議会を主宰され・以後今日までずっとバイオの安全性に関する日本の第一人者として活躍していらっしゃいます。さらにOECDのバイオ安全性専門家会合でも副議長として、また日本の代表として、長い間その議論のリード役を務めてこられました。
増田さんにおかれましては、通商産業省の初代生物化学産業課長であり、今日、化学品安全課長を務められており、化学品やバイオの安全性論議に長らく関係を持ってこられました。またOECDにおけるバイオの安全性専門家会合におきましては、日本から人的な貢献をする上で非常に大事なきっかけを作ってくださいまして、OECDのバイオテクノロジーの議論に大きな貢献とサポートをしていただきました。本日は個人の資格で参加していただきました。化学品安全課長や元生物化学産業課長としての立場を離れて、自由な意見をお話しいただきます。
それから炭田さんは、バイオテクノロジーに関しましていろいろなご経歴がございますが、1988年〜90年にありました日米財界人会議の中のバイオテクノロジー・フォーラムで、農業・環境分科会の日本側の委員長をされました。その後、1991年から3年間パリのOECD本部で正規の職員としてバイオに関する実務を担当され、国際調和のための議論の場でバイオの安全性に関する論議を集約し、リードなさってきた経歴の持ち主でございます。今日はそのお三方にこれまでの経緯を大づかみにお話しいただいて、読者のご参考に供したいと思います。
1970年代初期に組換えDNA技術が開発されて以来、この技術はライフサイエンスとかバイオテクノロジーの面で大きな役割を果たしてきました。当初組換えDNA技術は、科学の世界の技術であったわけですが、安全性の問題が極めて真面目に議論されまして、NIH(National Institutes of Health)のガイドラインができました。そのあと、産業技術としての組換えDNA技術の安全性の問題が、OECDの場で国際的調和の確保を念頭に議論されるようになりました。OECDの活動はまず、第一ラウンドが1983年〜86年までありまして、このときに有名なブルーブック(Blue Book 1986)ができました。さらに1988年から第二ラウンドが始まり、これが1994年の3月で終わりました(後掲「組換えDNA技術関連年表」を参照)。

アシロマ会議の意味したものは何か

石川 組換えDNA技術の安全性議論の最初の起点としてのアシロマ会議(1975年、米国カリフォルニア州)あたりから始めまして、議論の場がOECDに移ってくるまでの経緯につきまして、内田先生からお話をしていただきたいと思います。
内田 組換えDNAのいちばんもとの話は、大腸菌ファージの組換えの研究から始まりました。その時に私は現場に居合わせたので知っているわけです。バイオの安全性の議論となるとアシロマ会議が大変有名ですが、1973年に組換えDNA技術が発明されて、1975年にアシロマ会議が開催されるまでの間に大変重要なことが起こっています。それは、アシロマ会議を開催するきっかけになった、いわゆる「Berg書簡」というものです。1974年Paul Bergらが「発がん遺伝子が大腸菌に入ると大変なことになるかもしれない」ということを言い出して、「その問題が解決できるまで、科学者が自発的に仕事をちょっと止めて安全性の問題を検討しようじゃないか」と、話のきっかけを作ったのです。科学者が、起こるかもしれない危険性をあらかじめ自発的に注意をして仕事を中止する(モラトリアム)というのは、これが初めてのことで、科学者の自主的な責任の取り方だとして、美談扱いになったことはご存知だと思います。しかしこれが本当に美談であったかどうか、ということは今から考えるとちょっと問題があります。
モラトリアムを受けて、組換えDNA技術の安全性をどう考えたらよいか、どういう対処措置を講ずる必要があるか、等を論議するためアシロマ会議が開催されました。このアシロマ会議を通じて、生物的封じ込め、物理的封じ込め、などの考え方が出てきて、危険には近寄らないというか、そういう実験は封じ込めた条件でやろうということになった。これは想定される危険を評価せずして、それを封じ込めてしまったことを意味します。これが後まで尾を引きました。アシロマ会議での安全性議論の対象に該当しない事はやっていいという合意は作ったものの、本当に危険があるのか、ないのか、というところは評価せずじまいで終わってしまった。つまり今からみると石橋を叩いて渡らなかったという会議であった、という評価ができます。当時、アシロマ会議に参加した入たちが微生物の病原性のことについて、あるいは伝染病のことについて知らなかったということが一番大きな問題でした。
石川 日本の場合はどうだったのでしょうか?
内田 日本の場合には、大学での微生物学というのは病原微生物学から出発していて、後に発酵微生物学に視点が移ってきたという経緯があるものですから、病原性の問題は微生物を扱っている人はみんな知っているわけです。組換えDNA技術が発酵工業と結びついて、実際の製品を作る段階になってくると、安全性の問題については日本では常識的なことが、外国では知らないということがかなりあったのです。
1983年に、先進工業国の間でこの技術の安全性についてよく相談して、一緒に橋を渡ってみようという試みがOECDの音頭取りで始まったわけです。その時に日本はすでに実際的ノウハウをかなり持っていたと言えるわけです。日本の発酵工業製品あるいは抗生物質の生産というのが、その時の全世界のマーケットの90%以上を取っていましたから、大きなタンクでものを作るということがどういうことかということをよく知っていたわけです。
OECDの第一ラウンド(1983年〜1986年)の開始にあたって、日本がかなりの知識と考え方を提供しました。ものを作るということについての知識と経験を持っていたし、病原微生物を安全に扱うということについても知識と経験も持っていた。それらがOECDの第一ラウンドの活動の成功のきっかけになったのです。
現実には我々は無害な菌の埃の中で生活しているわけだけれども、目に見えない故に微生物と言うとすぐ病原体というところに発想が直結してしまう、つまり見えないからこわがるという受け止め方、それが外国における状況であったと言えます。
増田 1973年に組換えDNA技術ができましたが、これは人類にとって20世紀最大の知識であり技術の一つであると思います。
20世紀前半が量子論であり、相対性理論であり、そして不確定性原理であったりということに代表される物理学の時代であるとすれば、20世紀後半というのは生命科学の時代です。21世紀に向かっても生命科学はますます大きく展開しているわけです。その中でも組換えDNA技術が大きな役割を果たしている。生命科学のみならずサイエンス全般の発展にとって非常に重要な力になっているということは間違いないと思います。
組換えDNA技術を使うことによって、いろいろなこと、例えば免疫現象のようなことが研究されて、生命現象に対する新しい知見がどんどん増えているわけです。そして、サイエンス研究のための手段としての組換えDNA技術は、さらに産業技術としての組換えDNA技術へと拡大していく。ですから私は組換えDNA技術というものが、そういう意味で大きな技術革新として位置づけられるべきだと思います。
こういう認識の前提に立った時に、人類の過去の歴史においてこれだけ大きな技術革新があった時に、事故を起こす前にあるいは害をなす前に、その安全性の論議がされたということは、私が知る限り前例がない。
内田 宇宙飛行士を月に送って地球に連れ戻した時に、何か新しい病原体を地球に運ぶのではないかと考えて、隔離したという一例はありますが・・・。
増田 事前配慮という点ではおっしゃるとおりですが、技術革新で人間が新しい力を持った時に、その力の行使をするかどうかについて、安全かどうかという観点から議論をしたという事例は初めてだと思います。
確かにBergからアシロマ会議に至る議論というのが、後からみれば知識不足による行き過ぎた議論があったり、議論の不足があったりして、石橋を叩いたのに渡らなかったと表現されたところに現れているように、いろいろな問題があったのは事実でしょうが、この事前の自己規制そのものは非常に価値があった。私がそう言いますのは、その後の歴史がちゃんとその足らざるところを補完して、是正をしていっているからです。そのままモラトリアムとして留まっていて、今もそうだったらこれは失敗の歴史と言うべきかもしれませんが、その後サイエンスの蓄積とともに是正されていった。それは輝かしい歴史だと思います。
vそのへんのところは内田先生に当事者として具体的なお話をしていただきたいところですが、少なくともアメリカのNIHを中心にして、その後膨大な科学的な実験・蓄積をやりながら、科学的な論理と考え方をベースに徹底的に議論しつつ、NIHのガイドライン(1976年〜)を逐次展開していく流れは歴史に記録するに値すると思います。
その後、サイエンスのツール(tool)としての組換えDNA技術というのみならず、さらに産業技術としての組換えDNA技術という捉え方が出てきた時に、OECDでの議論がスタートするわけですが、1983年に始まったOECDの第一ラウンド(1983〜1986年)の活動の時代になっても、サイエンスの時代の流れはずっと引き継がれました。科学的知見の集積と科学的論議の成熟に伴ってNIHのガイドラインがそのつど見直された。さらに組換えDNA技術の開放系利用の議論になった時も、そのサイエンスの流れが全体の考え方をリードしていきました。すなわち、OECDの第二ラウンド(1988〜1994年)の時の議論の展開というのも、実はアシロマ会議以後ずっと続いてきたサイエンスの流れの中から、多くのものを得ながら進んで行ったわけで、私はサイエンス・ベースというところを高く評価するのです。
内田 もう一つは、始め科学者は物事を非常に単純に考えていたのです。遺伝において遺伝子はDNAであり、そのDNAの中の塩基配列がタンパク質を決めている。その機構はバクテリアから人間に至るまでみんな同じメカエズムで働いている。だから人間に有害な遺伝子が大腸菌に入って、それが人の腸管に住みついた時にはえらいことが起こるかもしれない、と単純に考えたわけです。それが1980年近くなって、バクテリアと高等生物では遺伝子発現メカニズムが根本的に違うということが分かったのですね。
これは組換えDNA技術をツールとした研究の結果として分かったのです。組換えDNA技術のおかげで今まで複雑すぎて分からなかった人間の遺伝子発現の研究も進んだわけです。始めは高校生でも誰でもできると思った組換え実験が、実際やってみると高等生物とバクテリアではメカニズムが違うために、始めに考えたほど易しくはなかった。易しくはなかったということを言い換えると、始めに単純に考えていたような危険性がないことが分かった、ということです。ある遺伝子を発現させるためには特別な工夫をしないと発現してこない。
石川 組換えDNA技術を使って生命現象をいろいろ調べてみたらそういうことがよく分かった、というぐらい、やはり組換えDNA技術というのはサイエンスのツールとしても画期的なものだったということですね。

組換えDNA技術関連年表

OECD

日 本

米 国

欧 州

1973

   



78:遺伝子操作協議会設立(17学協会)
79:「大学等の研究機関等における組換えDNA実験指針」の制定[文部省]
(82:第一回全面改正、以後引き続き数次の緩和実施)
79:「組換えDNA実験指針」の制定[科学技術庁]
(80:第一次改訂、以後引き続き数次の緩和実施)

73:組換えDNA技術の確立
74:Berg委員会の呼びかけ
75:アシロマ会議(組換えDNA技術利用に係る検討)
76:組換えDNA実験ガイドラインの制定[NIH]
78:NIHガイドライン緩和開始(以後、引き続き数次の緩和を実施)

82:NIHガイドラインの大幅免除

 

1975

実験段階

1983

産業段階

第1R屋内利用

83:OECD/科学技術政策委員会におけるバイオ安全対策の検討開始
86:組換え体を利用する際のOECD理事会勧告(BlueBook1986)


86:「組換えDNA技術工業化指針」の制定[通商産業省]
86:「組換えDNA技術応用医薬品の製造のための指針」の制定[厚生省]

87:「組換えDNA操作生物の環境への導入/何が問題か?」発表[全米科学アカデミー]

 

1988

 

第2R野外利用

88:バイオテクノロジー安全性専門家会合(GNE)を設置し、検討再開

91:バイオテクノロジーの環境活用専門家会合を設置し、検討を開始
91:組換えDNA技術を精造プロセスに利用したかではなく「製品ベース(プロダクトベース)の安全性評価」の原則を確認

93:「バイオ食品の安全性評価−コンセプトと原則−」を公表
93:「バイオテクノロジーへの安全性考察−作物のスケールアップ」を公表(BlueBook1993)


89:「農林水産分野等における組換え体の利用のための指針」の制定[農林水産省]

92:「食品分野への組換えDNA技術応用に関する指針」の制定[厚生省]
92:「農林水産分野等における組換え体の利用のための指針」一部改正(組換え実験動物に関する事項の追加)


89:「遺伝子改良生物の圃場試験:判定の枠組」発表(「組換えDNA技術に固有の危険性がない」ことを確認)[全米科学アカデミー]
90:「バイオテクノロジーに対する連邦の監督の原則」公表[科学技術政策局]
90:「バイオテクノロジーの規制の基本原則」発表[米大統領府]
91:「国家バイオテクノロジー政策報告」[米大統領競争力委員会]
92:「バイオ製品に関する連邦法規整備」発表[米大統領競争力委員会]
92:米食品医薬品局、バイオ食品に特有の規制をしないとの指針を発表



90:「遺伝子修飾微生物の閉鎖系利用について」のEC指令採択
90:「遺伝子修飾微生物の環境への意図的放出(開放系での利用)について)のEC指令採択
91:バイオテクノロジー調整委員会を設立(バイオテクノロジー分野に関する調和のとれた政策について検討)
93:ドイツが「遺伝子法」を緩和
93:「成長、競争力、雇用に関する白書」の公表

1994

   

94:バイオテクノロジー・ワーキングパーティ(WPB)の設立(GNEマンデーとの拡大)

94:バイオレメディエーションに関するOECD東京ワークショップ

94:組換えトマトの販売認可

94:EC指令の緩和の動き始まる

サイエンス・ベースの議論の重要性

増田 1970年代も終わって1980年代、地球環境問題について、いろんな議論がされました。この議論というのが組換えDNA技術の議論と性格的に類似したところがあると思うのです。それはどういうことかと言うと、組換えDNA技術によって人が傷ついたり、誰かが病気になったりしたわけではありません。そうではなくて人間が理性的に考えたらこうなるかもしれないという、一つの仮説に人々が賛同してBergからアシロマ会議、NIHの組換えDNA技術ガイドラインの制定、そして各国におけるガイドラインの制定へと社会が大きく動いたわけです。同じことがその後1980年代以降いろいろ起こるわけです。例えばフロンによるオゾン層破壊の問題でも、当時決してフロンで死んだ人が知られていたわけではない。しかし科学的な観測からオゾン層が減少していることがわかる。
どうもフロンが原因らしい。それは観測された事実と科学的な推論の結果得られた一種の仮説であって、その仮説に政治や社会が動いたということです。
すなわち誰かが傷つき死んで、そこで怨念が噴出して世の中が動いたわけではないのです。CO2問題もそうです。こうした動きは20世紀の第4四半期を特徴付ける歴史的動きだと思います。民主主義の世界で市民のそういう思いで社会が動いたということです。
そういう意味で、「力と情念が社会を動かす時代」から「科学的知見に基づき科学的方法論によって社会が動く時代」に変わっていく大きな流れが、20世紀の後半にあって、その先鞭をつけたのがこの組換えDNA技術の安全性の論議であったと私自身は思っています。これからの世界ではこういうことが大きな流れになると思っています。
私が今担当している化学物質の安全性についても、最初は水銀やPCBで現に傷ついた人が現れ、70年代はまさに怨念の「怨」の字を旗に掲げてのぶつかり合いがあって社会が動いたわけです。それから20年の経過の中で、今、化学物質の安全性に関して取り組んでいる姿は、まさに科学的方法論そのものです。
石川 OECDは化学物質の安全性にどのように対応したのでしょうか?
増田 OECDの化学物質グループの歴史をたどると、1973年、まさに組換えDNA技術が発明されたのと全く同じ年が起点になっている。それから数年間はすでに社会問題化しているPCBだとか水銀の議論をしました。いわば、怨念の事後処理を考えたわけです。しかし、OECDは必ずしも大きな成果を挙げることができず、水銀を禁止するとかPCBを禁止するとか言っても、国益という力と怨念とのぶつかり合いで、合意形成ができなかったのです。
OECDが化学物質の安全論議の方向を変えたのは、基礎固めの重要性を痛感したためです。OECD加盟国が化学物質の生産・使用等に伴うリスクを削減して安全性を向上させていくために各国が協力していくにはまず共通の認識が必要である。そして、共通の認識を得るためには、科学的知見と科学的方法論に基づくことが必須である。こうした認識のもとにOECDは活動を再構築したわけです。そして、科学的共通認識の基礎を作ることを目的として、1975年から第一期の活動に入った。くしくもアシロマ会議が開催されたのと同じ年にOECDは化学物質の安全性論議を科学的ベースの上で開始したわけです。
まずやりましたのが、安全性試験方法の確立と統一です。OECDテストガイドラインとして化学物質の物理化学的性状、分解・蓄積性、毒性などに関する100近い数の試験方法を作ることでした。また、安全性を評価するための試験データが信頼するに足り、相互に受入れ可能であるかどうかというのは試験方法が統一されただけでは不十分で、試験機関がきちんとマネージされていることを確保することが重要であるとの認識のもとに、優良試験所基準(GLP)というものを作りました。さらに、安全性の評価というのは深く広くやればやるほど良いに決まっているけれども、それではあまりにも非現実的となり、負担が大きすぎるので、市場に製品を出す前に最小限やるべき安全性評価項目は何かということで上市前最小安全性評価項目(MPD)を決めました。
これらはまさにサイエンスの世界の議論でした。世界中の専門家を集めデータ・知見を集め、必要な時には各国参加してのリングテストなども実施しながら決めていったわけです。アシロマ会議以後、NIHを中心に進められた科学的論議と似た動きと言えるかと思います。
1983年から始まる次の第二期というのは、そうやって作られた信頼するに足る安全性データをできるだけ広く人々が活用することによって有効に生かすため、安全性に関する情報の交換についてルール作りを行いました。そして1991年から始まる第三期には、本来の目的である化学物質によるリスク(危険性)の削減あるいはリスクの管理ということに取り組んでいる。化学物質の安全性の議論は今、世界の共通の課題として国連環境開発会議(UNCED)アジェンダ21第19章にもとりあげられ、各国が取り組んでいるわけですが、なぜそれができたかというと、まさに科学的ベースを共通にして、共通認識を作り上げたところに大きな基礎があったわけです。そういう意味で私はアシロマ会議以降、NIHを中心に進められた科学的方法論が先導した安全論議の流れは、OECD化学物質グループの中で見られた流れとも共通する重要な流れだろうと思います。
内田 一つ非常に難しいのは安全面でものを見るか危険・リスクの面で判断するかということです。ちょうど紙の裏表、コインの裏表みたいな関係にあるように見えるけれども、実際には違うわけです。危険というのは証明しうるわけです。ところが安全というのは100%の保証はできない。つまりどんなに安全だと言っても何が起こるか分からないという理論的可能性は残り、いろんな空想をそこに積み上げていくことができる。けれどもそれをあまりやっていたら何も新しいことを実行できなくなる。人間の日常生活も社会も成り立たなくなる。例えば生ビールを1日に5000本飲んだと仮定したらこういう危険な問題がありうるという理論的可能性は論議をしうるが、実際にはそんなに飲むわけはないですよね。最初の「仮定」の非現実性や不適切さは忘れられて、「危険な問題」だけが語られる傾向がある。そのへんのところが非常に難しい。特に、新しい技術が導入された時に、その技術で何が起こるか分からないという不安感がそこに過剰に出てくると、その技術は利用できないということになりかねません。
増田 全く私も同感です。安全の問題と安心の問題とは大違いだということです。安全は世界の人々の共通の関心事であり、課題です。したがって、世界の共通の言葉で語られ、世界が認識を共有することが必要です。私がしつこくサイエンスが重要だと申し上げているのは、サイエンスが数少ない、あるいは唯一の世界共通の言語であるからです。世界共通の言語で語るとしたら安全問題はサイエンスで語れるが安心問題は語れない。安全問題を世界共通語(サイエンス)で語って一つの結論に至った上で、安心度をどれだけ取りたいかについては個人差・国民差が出てくるということは認めざるをえない。安心問題の前提として安全問題が世界に通じる基本としてあるわけです。要するに「これだけのことを尽くして考えるかぎり、こう考えるのが妥当であろう」ということについての共通認識を作るというのが安全の問題のポイントだと思います。
そのうえでも「俺はやっぱりそれはいやだ」と言う人はいるし、そういう社会はあるかもしれないけれども、それはその人なり社会の選択だと思います。本質的には飛行機だって船だって自動車だって事故が起こるし、道路を歩いても起こり得る。現に交通事故によって毎年1万1000人以上の人が死に80万人以上の人が傷ついている。政令指定都市の人口に匹敵する数です。安心の問題から言えば、こういう事態を「だから自動車はいやだ」と言うかどうかということになる。
炭田 安全性の論議をサイエンス・ベースで行ったことがこれまでの成功のキーであったわけです。1983年にOECDに議論の舞台が移った時、科学技術政策委員会という場所を安全性議論のフォーラムに選んだということは賢明な判断でした。OECDの中では物事のディスカッションに際して、「知的説得(Intellectual Persuasion)」ということの重要性が強調されます。OECDの加盟国は国力の大小に関係なく、お互いに対等の発言権を持っています。ですから加盟国間の意見の違いは、力によってではなく、誰もが納得する論理とデータによって相手を説得し、互いに歩み寄ってゆき、最後は満場一致によって共通のものを作り上げていくという伝統があるのです。それがOECDの強さであり、プレスティージの源泉であると言われています。またOECDの科学技術政策委員会では、安全性に関する「科学的原則(scientific principle)」の国際調和ということに議論を限定し、「規制(regulation)」の問題には意図的に踏み込まなかった。これは賢明な判断だったと思います。さきほど増田さんがご指摘になりましたように、安全の問題はサイエンスで語れますが、安心の問題については個人差・国民差が出てくる。各国の規制制度も似た面を持っている。しかし規制の基本となる「科学的原則」については、各国共通の認識を作れるはずだという考え方をしたわけです。
増田 私は、世界の共通言語は英語でもフランス語でもなくて、科学的な事実に基づく科学的方法論だけだと思うのです。科学と科学的方法論というのは同義語ではありません。誰も動かし難い事実というものをもとに論理を組み立てていく、それも科学的な論理構成で組み.上げていって、その結果出てくる結論というものに対しては、やはり「みんなが理解しましょう」というのが科学的方法論ということです。いま炭田さんが言われたことというのは、まさにそのことを言ってらっしゃいます。OECDが「知的説得」によって物事を進めていくという時、今世の中に有り得る方法論としては、やはり科学的方法により共通認識を形成していくという方法論しかないし、それがいちばん良い方法だと思います。OECDの場での議論というのがバイオの関係であれ、化学物質の関係であれ、はたまた他の領域であれ、サイエンス・ベースの論議が重要視されるというのは当然のことであるし、非常によかったと思います。

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