4.3−a 遺伝子組換え生物の野外利用の安全性

人類の活動と自然環境の関係
 全ての生物はそれを取り巻く周囲の環境(周囲の生物ばかりでなく、温度や水分等の非生物的な環境も含む)との相互作用の中で生活しており、この相互作用を通じて複雑な生態系を作り上げている。このような生態系は、地球環境の大きな変動や生物間の生存競争により、時々刻々と変化し、地球の歴史と共に大きな変遷をしてきた。このような生態系の変遷において、人類の影響は極めて大きく、人口の増加や工業化に伴う人類の発展は自然環境の激変を引き起こしてきたことはよく知られている。特に、狩猟・採集時代(これとても自然環境に大きな影響を及ぼすものであるが)から農耕時代に入ると、耕作地の拡大や耕作に適した生物の取捨選択(交配や突然変異を利用した品種改良も含まれる)により、自然環境(典型的な意味での人の手が入っていない環境)は激変した。二酸化炭素濃度の上昇による地球温暖化などを考えてみれば、人の影響が全く及んでいない自然環境は現実にはほとんど残されていないと言っても過言ではない。人類以外の生物にとって人類は環境破壊をもたらす元凶であり、広く地球環境の保全を考えれば、(文明化された)人類はいないほうがよいとする考え方が生じる所以である。
 このように、人類の歴史を考えると、人類の食糧を生産するための農業や生活の場である農村や都会を築き上げてきたことそのこと自身が自然環境に甚大な影響を及ぼしてきたわけであり、生態系保全やバイオテクノロジー(従来の品種改良も含め)で育成された農作物等の環境影響を考える場合、このことを棚に上げて考えることは適切ではない。
遺伝子組換え農作物の野外利用とファミリアリティー
 遺伝子組換え技術を含むさまざまなバイオテクノロジー技術を利用して、多様な農作物が開発・実用化されるようになった時、学会、各国政府、OECD等の国際機関で、バイオテクノロジーで育成された農作物(特に、遺伝子組換え農作物)を実験室内から屋外の一般環境(圃場等)に出して栽培することの是非や、そのときに生じるかもしれない環境への影響をどのように考え、どのように評価するか等について、多くの科学的な議論がなされた。議論の結果は上述したように、人間の営みそのもの、特に(既存の)農業そのものが環境に大きな影響を及ぼしていることを認め、人類がこれまでの長い歴史の中で多様な農作物を食糧として生産するために実際に世界中で行ってきた栽培の経験やその際に得られた知識を活用しつつ、環境への影響を評価することが妥当であるとするものであった。この考え方は、我々人類が長い歴史の中で農業や農作物に対して経験を通じて獲得してきた知識(ファイミリアリティー)を基本としていることから、ファミリアリティー(Familiarity)の概念と呼ばれている。
 実際、交配や突然変異等を活用してきた従来の品種改良(育種)においても、大幅な遺伝子の改変が起こっており、組換えDNA技術等の遺伝子操作技術を使って遺伝子を改変したこと自体により環境に甚大な影響があるというのは正しくない。個々の遺伝子組換え生物(農作物)ごとに、導入した遺伝子の特性や育成された遺伝子組換え生物ごとの特性を加味しつつ、遺伝子を導入したもとの生物(農作物)の持つさまざまな特性(特に、生態系に対する影響)と比較・検討し、遺伝子を導入したもとの生物(農作物)と同程度の影響であると判断されるならば、野外への放出(一般圃場での栽培等)を認めるとする考え方が生まれてきた。現在、欧米を含め世界各国で遺伝子組換え農作物の野外試験や野外利用に先立って生態系に対する影響評価が行われているが、その根底となっているのはこのファミリアリティーの考え方である。
守るべき自然環境とは何か
 しかし、ファミリアリティーの考え方に疑問を呈する意見もある。もし、上述したように、農業そのものおよび既存の農作物そのものが生態系に甚大な影響を及ぼしていることを議論の前提にしないのであれば、守るべき(自然)環境とは何かを議論することが必要となる。全くの人の手つかずの自然環境を守ることを考えるのであれば、農業そのものを否定するか、あるいは農業を行う場所を限定せざるをえないこととなるだろう。さらに遡って考えれば、人類がこの地球上に生存していること自身がよいことかどうかを考えることが必要となろう。OECD等での上述の議論の根底は、この地球上において人類が生存していくことを前提としており、さらには、良好な地球環境を維持しつつ人類の持続的発展を支えるための方策を考えることである。この根底に関する議論は、遺伝子組換え生物の利用に限ったものではなく、人口増加の問題、食糧生産の問題、都市化の問題、工業化の問題、南北問題、地球環境問題等、全てに共通する問題であり、人類の是非に関する全人類の問題として議論することが必要であろう。
 こうした地球規模での諸問題は、別な側面でも議論されている。農耕地や牧畜地の開発、森林の伐採等に伴う熱帯雨林の減少や砂漠化等による生物の多様性の急速な減少が危惧され、生物多様性条約が結ばれたことはよく知られている。この条約における最も重要な点は、人類の持続的な発展を支えるために、地球上の多様な生物資源・遺伝子資源を保全し、活用することを謳っていることであり、決して人類がいないことを想定したものでは無い点である。また、本条約においては、多様な生物資源・遺伝子資源を有する発展途上国に対し、そのような資源を活用して得た利益を還元することを求めている。このように、本条約が生物多様性の保全の理念だけではなく、先進国と発展途上国との経済的な問題にも対処していることも理解しておく必要がある。
遺伝子組換え生物とバイオセイフティーに関するカルタヘナ議定書
 遺伝子組換え生物を野外に放出した際の生物多様性への影響については、この生物多様性条約のもとでも議論された。その結果、各国の固有な生物多様性(遺伝子多様性も含む)を保全・維持するために、遺伝子組換え生物の国境を越える移動に関して一定の取り決め(輸入に際して輸入国が自国の環境に対する影響を事前に評価し、輸入の如何を決定することを骨子としている)をする必要があるとの結論に達し、生物多様性条約の下にバイオセイフティーに関するカルタヘナ議定書(以下カルタヘナ議定書と略記)が結ばれた。我が国においても、カルタヘナ議定書を締結するため、平成15年に「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律(通称、カルタヘナ法)」が制定され、平成16年2月19日より施行された。
 現在、我が国では、本法律に基づく審査(遺伝子組換え生物の環境放出(第1種利用)に際しての環境影響評価)が始められており、上述したように、既存の農作物が本来持っている環境影響を基礎として、我が国の生物多様性を保全・維持するための具体的な審査項目が設定されている。今後どのように審査項目が見直されていくかは不明であるが、我が国において守るべき自然とは何か(全く手つかずの自然を守るのか、里山を代表とする人の手が加わった環境を守るのか、都市化と農耕地のせめぎあいにどう対処するか等)、農業をどのように考えるのか(農耕地をどのように守るのか、農薬をまくことが環境に与える影響をどのように考えるのか、生産性や食糧自給率をどのように考えるのか、有機農業のあり方をどうとらえるか等)、遺伝子組換え技術をはじめとするバイオテクノロジー技術のメリットとデメリット(どのような遺伝子を導入した場合に従来の農作物より環境(生物多様性)に大きな影響があるのか、耐虫性を付与することによる農薬の使用量の減少と従来の殺虫剤使用による非標的昆虫への影響等をどのように考えるのか)等、議論しなければいけない課題は多い。食糧生産は我々人類全体の生存にも関わる重要な問題であり、今後も科学的基盤に則った世界規模での議論が重要である。また、カルタヘナ議定書にも謳われているように、生物多様性への影響を評価する技術や知識を先進国が発展途上国に移転するなど、世界中の国が自ら、農業をはじめとするさまざまな技術が環境に及ぼす影響を評価するために必要な能力を構築できるよう、発展途上国に対する援助を行うことが必須である。
5.1 農作物の食品としての安全性